【ID野球の原点】衝撃的だったブレイザーとの出会い 華麗な守備とバントにタメ息が出た

2020年12月28日 10時00分

華麗な守備でファンを魅了したブレイザー。メジャー生活12年間で得た経験を日本球界に伝えた

 2020年2月、プロ野球のヤクルトなどで監督を務めた野村克也氏が84歳で亡くなった。「知将」として数々の実績を残した野村氏の代名詞とも言えるのが、データを重視した「ID野球」だったが、その転機となったのは南海の選手兼監督時代、同僚の助っ人外国人選手、ドン・ブレイザー氏が日本に持ち込んだ「シンキングベースボール」だという。では、メジャー流の「考える野球」とは何だったのか? ブレイザー氏を通訳、コーチとしてサポートし「ブレイザーの陰に市原あり」と呼ばれた市原實氏が、2007年に本紙連載で明かした内幕のすべてを正月特別連載として再録した。(全16回、1日2話更新)

 

【ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕(1)】ブレイザーとの出会いは1969年の春季キャンプ。彼の現役最後の年だった。前年のオフにテスト生として南海に入団した私は、高知・大方町で行われていた一、二軍合同の春季キャンプで、その練習風景に圧倒された。

 ランチタイムに行われたノックはまるでショーのよう。二塁の定位置についたブレイザーのグラブさばきに私たち二軍の選手は誰もが見とれ、ボールが自然にグラブに吸い込まれていくかのような錯覚すら覚えた。

 自ら捕りにいくのではない。どんな打球も捕球面が浅くて小さい独特の形をした彼のグラブに一瞬にして勢いを殺され、流れるように難なく処理されていく。「名人芸とはこのことを言うのだろうか」とタメ息すら出たほどだ。

 また、バントの技術も「神業」と言えるものだった。ブレイザーのバントは打球の勢いを殺すのではなく「止める」のだ。ボールをバットの芯でしっかりと受け止め、ハンドワークで狙った場所にそっと置くという感じだろうか。実際、コロコロと転がった打球は面白いように三塁線でピタリと止まった。

 彼の言葉で印象に残っているのが「私は相手の三塁手がいくら前進守備をしてこようともバントヒットを決める自信がある。私のバントヒットを阻止できるのは俊敏な捕手だけだ」。だから私たちはこぞってブレイザーの技術を盗もうと躍起になった。彼と同じ型のグラブを米国のメーカーから取り寄せてもらい、競うように守備練習やバント練習をやった。今でこそ各チームはバント練習をキッチリやるものの、当時あそこまでバントを練習したのは南海だけではなかったかと思う。

 だが、ブレイザーがもたらしたものは「技術」だけではない。控えめで冗舌な男ではなかったが、内に秘めた闘志と野球に対する愛情、そしてあくなき探究心には多くの選手が影響された。さすがはセントルイス・カージナルスでオールスターやワールドシリーズに活躍した経験のある元大リーガー。たくさんの財産を日本球界に残してくれた。

 それはホークスの司令塔・野村克也も例外ではない。当時「ムース」(大鹿)という愛称で呼ばれていた野村は、ある試合で「おいムース、これはどういうことなんだ?」とブレイザーからクレームをつけられた。そしてこの一件が野村の目を開かせることになったのだ。=敬称略=


 ☆いちはら みのる 1947年生まれ。千葉県出身。県立千葉東高―早稲田大学教育学部。早大では野球部に入部せず、千葉東高の監督をしながらプロの入団テストを受験し、69年南海入り。70年オフに戦力外通告を受け71年に通訳に転身する。79年に阪神の監督に就任したブレイザー氏に請われ阪神の守備走塁伝達コーチに就任。81年にブレイザー氏とともに南海に復帰すると、89年からは中西太氏の要請を受けて近鉄の渉外担当に。ローズ、トレーバーらの優良助っ人を発掘した。ローズが巨人に移籍した04年に編成部調査担当として巨人入団。05年退団。

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