【平成球界裏面史・平成のカープ編(5)】「こんな終わった選手に話を聞いて、どうするんですか。来年のいまごろはもう引退してますよ」
 平成20年(2008年)の日南キャンプ、ホテルの食堂に現れた前田智徳は、真顔で言い放った。

 現役時代は取材嫌いで記者泣かせ。一時は何を聞いても、「すみません」「ほっといてくれ」しか言わなかったほど。月刊誌「ウェッジ」の仕事で単独インタビューにこぎつけたこのときも「僕はOKした覚えはないんですけどねえ」と、最初は結構渋い表情だった。

 前田は前年に2000安打を達成し、当時閑古鳥の鳴いていた旧本拠地に満員の観衆を集めて、衰えぬ実力と絶大な人気を証明したばかり。その話題から切り出したら、仏頂面で首を振った。

「人気? 人気は間違いなくないです。こうして話したらわかるじゃないですか。僕は常識がないでしょう。野球をやってなかったらただの生意気なクソガキですよ。人気なんか、あるわけない」

 そんな前田がブレークしたのは平成4年の巨人戦だ。自分の守備のミスで同点とされ、北別府学の勝ち星を消し、悔し涙を流したあとで決勝逆転2ラン。ヒーローインタビューを拒否したことも鮮烈な印象を残した。

 ところが、前田本人は苦笑して言うのである。

「僕、泣いてないです。申し訳ないけど、泣いてません。あのときはただ早く試合が終わってほしかっただけ。周りに怖い先輩がいっぱいいたし」

 2000安打した自分の力についても「そんなのはもう“日本昔話”です」と言い切った。

「(平成7年に)神宮で(三塁)ベースを踏み、(右足の)アキレス腱を切ったときから、すべては昔話になったんです。僕がワンバウンドの投球を空振り三振して、振り逃げで一塁へ這っていく姿を見たいですか。もう勘弁してくださいよ」

 あの大ケガで入院していた間は、改めて自分を見つめ直す機会になったのではないか。そう聞いたら「何が見つめ直すですか」とこれも否定。

「当時は23歳の若造でしょう。野球をやってるときなら自分のゾーンに入れますけど、入院中はただただ寂しいだけ」

 そうしたさなか、前田は入団時の監督・山本浩二に「思い切って」電話をしたと明かした。「メシに連れてってください、お願いします!」と。

 念のため、山本浩二に確かめると、病院で外出許可が出てから、前田にすしや焼き肉をごちそうして励ましたという。前田のリハビリが順調に進んでいるころには、ゴルフにも連れて行ったそうだ。

 前田は戦列に復帰してから「左足のアキレス腱も切れたらバランスがよくなるんじゃないか」と発言。いまもファンの語り草になっている。

「あれは単なるヤケクソです。ヤケクソでも言わなきゃやってられない」

 そんな前田が自主トレで室内練習場へ通うシーズンオフ、よく自分の車に乗せていたのが、当時若手だった東出輝裕だ。その車中、打撃について質問した東出に、前田はこんな答えを返した。

「打撃は(他人に)教えられてできるようなものじゃないよ。実際に打席でいっぱい失敗をして、その中からいかに大事なものを見つけるか。その積み重ねでつかむんだ。たとえば2―2、3―2とか、打てる球が来そうな確率の高いカウントがあるだろ。じゃあ、そのカウントをつくるために、打席でどうするか。どうやって粘るか、どの方向を狙うか、そういうことを常に自分で考えることが大切だと思う」

 東出は引退後、平成28年から一軍の打撃コーチとして3連覇に貢献し、現在二軍のコーチを務めている。前田がカープに残したレガシーはいま、ファームの若手が成長の糧にしているはずだ。