【藤井康雄連載コラム】初めての東京生活でネオン街にうつつを…

2020年11月17日 11時00分

石山監督の指導で打撃のコツをつかめた

【藤井康雄「勇者の魂」(20)】1981年に大阪の泉州高(現近大泉州)からプリンスホテルに進みました。僕は3期生。チーム自体が派手というか、大学のスター選手を集めて作ったんで社会人に詳しくない僕でも知っていましたね。そこに入れるのはうれしかったし、すごいところで野球をやらせてもらえると思いました。

 高校時代が厳しかったのでプリンスの練習は楽しかったですよ。配属は新高輪ホテルの客室係で、シーズンオフはベッドメークなんかをやっていました。1、2年目は都市対抗に出られなかったので夏場でも半日練習、半日職場という感じでね。練習はほとんどプロに近いことをやっていたと思うし、自由にできていました。野球部の合宿所も教育係みたいな先輩はいたけど、高校みたいなことはないし、楽でした。

 その時に出会ったのが、助監督をやられ、後に監督になられる石山建一さんです。技術的なことを初めて教えてもらい、時間はかかっても自分の打撃がつかめた。ただ、1~2年目は…。高校時代が3年間、山の中の寮で外出もできなくて、それがいきなり東京生活でしょ。新宿の夜の明るさにハマってしまって(笑い)。試合がないと日曜が休みになるし、ネオン街にふらふらってなりますよね。プライベートな時間が結構あったので2年間ほどはネオン街にうつつを抜かしてました。まあ、僕は優等生でしたから夜に抜け出して朝帰りはしなかったですけどね。

 プリンスは打たなきゃ試合に出れない。僕の長打力を石山さんが買ってくれて、3年目くらいから試合に使ってくれるようになった。軸足や体の使い方を教わるんだけど、話し好きだから面白かったし、それで徐々に打てるようになった。守りはあまりうまくならなかったけど、練習が楽しい。

 5年目の秋にはオール関東の代表選手に選ばれて台湾の国別対抗戦に出場。6年目には若手の全日本に選ばれ、ここでも台湾での国別対抗戦で4番を打たせてもらった。翌年のソウル五輪を目指すための大会で、日の丸を背負うのはうれしかったし、自信につながりましたね。

 でも僕はずっとプロに行きたかったし、86年のドラフトがラストチャンスかな、と思っていました。プリンスは西武系のホテルなので石毛宏典さん、金森栄治さんが入団していて、西武にルートがあると思われていました。でも中尾孝義さんは中日、住友一哉さんは近鉄、堀場秀孝さんが広島に行っていたし、言うほど関係なかったかもしれません。プリンスに入ればプロに近づくとは思っていましたね。

 1年前の85年のドラフトで西武が清原和博を外した場合、僕が指名されるという話もあったようなないような…。でも僕も一塁手だったし、清原を当てちゃったので僕はないのか、と。その年はどこでもいいと思っていたら指名はありませんでした。そして翌年…。

 ☆ふじい・やすお 1962年7月7日、広島県福山市出身。泉州高(現近大泉州)から社会人・プリンスホテルを経て、86年のドラフト4位で阪急に入団。長距離砲としてブルーサンダー打線の一角を担った。オリックスでも95、96年の連覇に貢献。勝負強い打撃が持ち味で、通算満塁本塁打(14本)は歴代3位。代打満塁本塁打(4本)は日本記録。2002年に引退後はオリックス二軍打撃コーチ、11年からソフトバンクで一軍打撃コーチを務め、18年にオリックスに一軍打撃コーチとして復帰。今年から総合建設業「共栄組」に籍を置き、JSPORTSの解説、神戸中央リトルシニア、関西創価で指導している。

関連タグ: