【藤井康雄連載コラム】上田監督のおかげでプロとしての自覚を持てた

2020年10月21日 11時00分

上田監督からプロ意識を叩き込まれた

【藤井康雄「勇者の魂」(6)】 上田利治監督から言われたことで忘れられないのは1年目のオフに結婚した時、披露宴で上田監督にあいさつしてもらって「細く長くでいいからやっていきなさい」と。長くやりたいな、とは思っていたし、その時は細くてもいい、くらいに思っていました。門田博光さんを見ていたら本当に40歳まで結果を出してやれるんだな、と思いましたね。

 上田さんの勝負に対する執念はすごいし、いっさい妥協はない。上田さんのおかげでプロとしての自覚は持てたかなと思います。でも厳しさばっかりじゃないですよ。僕が2年目で打てていない時、監督に「期待はしてる。今、お前にできることをやってくれたらいいんや」と言われて怖さが抜けた。これだけ期待してくれているんだと…。

 ダメなら代えられるのがプロの世界なのに、監督の口から期待の言葉を聞いたら意気に感じたし、自分ができることをやるしかない。それで吹っ切れた。僕も引退後に指導者になった時に思いましたけど、チームを引っ張ってもらいたい選手を二軍に落とそうとは思わないですよ。こいつは必要な選手になってくれる、と上田監督には見えていたんじゃないですかね。

 怒られたことは…個人的には一度もないですよ。地方の試合で同点の場面で一塁を守っていて、走者一塁。一塁ゴロが飛んできてゲッツー狙いでセカンドに投げたら暴投! それが原因で負けちゃったんで、ベンチに帰れないですよ。やってもうた、絶対怒られる…。それでも何も言われなかったんです。監督の持つ雰囲気というか、監督たるものはこういう人っていう感じですね。

 ちなみに「ええで、ええで」はマスコミが作ったもので一度も聞いたことないです(笑い)。阪急に入団して4年間、上田監督にお世話になりました。1990年、オリックスは2位に終わり、球団は本拠地を神戸に移すということで監督は勇退された。もっと一緒にやりたかったですね。

 89年、90年の2年間は優勝できなかったけど、今も歴史の一つとして「ブルーサンダー打線」は語られる。その中の一員でいられたことがうれしいですよ。昔の西鉄「野武士軍団」とか、近鉄の「いてまえ打線」とか、そういう代名詞がつく時って個性の集まりでしょ。だからこそあの結果が出せたと思います。ほれぼれするような打線だったのに、なんで優勝できんかったんかなあ(笑い)。

「俺が打つよ」「俺が打点稼ぐよ」という思いが得点になり、勝つ。チームとして一体になる勝ち方というのは後に優勝した95年に気づきましたけど、ブルーサンダーではそんなのなかったですもん(笑い)。投手が4~5点取られても全然平気だし、俺が逆転してやるよ、みたいな…。あれだけの強烈な個性のメンバーを使っていたわけだから、やはり上田監督はすごかったと思いますよ。

 ☆ふじい・やすお 1962年7月7日、広島県福山市出身。泉州高(現近大泉州)から社会人・プリンスホテルを経て、86年のドラフト4位で阪急に入団。長距離砲としてブルーサンダー打線の一角を担った。オリックスでも95、96年の連覇に貢献。勝負強い打撃が持ち味で、通算満塁本塁打(14本)は歴代3位。代打満塁本塁打(4本)は日本記録。2002年に引退後はオリックス二軍打撃コーチ、11年からソフトバンクで一軍打撃コーチを務め、18年にオリックスに一軍打撃コーチとして復帰。今年から総合建設業「共栄組」に籍を置き、JSPORTSの解説、神戸中央リトルシニア、関西創価で指導している。

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