【藤井康雄連載コラム】松永さんにはプロとしての仕事を教えてもらった

2020年10月20日 11時00分

“恐怖の1番打者”だった松永

【藤井康雄「勇者の魂」(5)】ブルーサンダー打線の1番といえば松永浩美さんです。スイッチでアベレージヒッターでもあり、長打力もある。よく話していたし、東京では飲みにもつれて行ってもらいました。松永さんはドラフト外で入団したのに野球協約で支配下登録ができず、練習生を経て支配下登録された人。努力であそこまでなったのでこだわりが強くて自信家。誤解されるタイプだったと思うし、人ともめることはあったと思います(笑い)。積み上げてきたプライドがあるので首脳陣からしたら扱いづらかったかもしれない。

 試合に関しては絶対に休まない。プロである以上、シーズン130試合だけじゃなく、オープン戦もお客さんが入っている以上、全部一つのセットで考えている。そこでもしっかり自分のプレーを見せろ、調整じゃないんだ、ということを教えてもらいました。それもプロとしての仕事だと。

 ブーマー・ウェルズは僕が2年目の1988年の5月にヒザをケガして帰国したんですよ。そのおかげで代わりに僕が一塁手のレギュラーを取れたので、そういう意味で運命を感じていますよ。1か月ほどで戻ってきたんですけど、その間に僕が結果を出せたのでその後もライトに回るようになったんです。ブーマーは90年にも自打球で骨折していて、それは同じ打席で左足の同じところに2球続けて当てての骨折でした。

 パワーだけじゃなくて技術も高く、配球を読む打撃をしていました。打撃練習のスタートは必ず右打ちから入る。セカンドゴロを何球か打ってバットの軌道を考えながらやっていました。能天気のように見えてめちゃめちゃ考えてますね。あれだけの身長なのにバットをインサイドから出す。そういうところが三振の少なさにつながっているし、でないと3冠王なんか取れませんよ。性格も見ての通り陽気でベンチを盛り上げていました。

 石嶺和彦さんはB型肝炎に苦しんでいて点滴をしながら試合に出て、結果を出していましたね。リストが強くて独特の打撃フォーム。最初のころはこの人も怖い雰囲気であまり話せなかったですね(笑い)。ヒザをケガして捕手から外野手に転向したんですが、インコース打ちがうまくてヒジを抜いてリストを返して打つ技術がありました。

 そういうクセの強いメンバーをうまく使っていたのが指揮官の上田利治監督ですよ。勝負に対する執念がすごかった。練習も長いし、厳しい。キャンプなんかスタンドで拡声器持って「できないなら出ていけー!」って(笑い)。78年のヤクルトとの日本シリーズで見せた猛抗議も有名だけど、勝ちへのこだわりがすごい。若い選手だけじゃなく、ベテランにも甘くなることはなかったですよ。でも理不尽なことは言わない。コーチ陣はピリピリしていたけどね(笑い)。

 そんな上田監督に言われたことで忘れられないひと言がありました。


 ふじい・やすお 1962年7月7日、広島県福山市出身。泉州高(現近大泉州)から社会人・プリンスホテルを経て、86年のドラフト4位で阪急に入団。長距離砲としてブルーサンダー打線の一角を担った。オリックスでも95、96年の連覇に貢献。勝負強い打撃が持ち味で、通算満塁本塁打(14本)は歴代3位。代打満塁本塁打(4本)は日本記録。2002年に引退後はオリックス二軍打撃コーチ、11年からソフトバンクで一軍打撃コーチを務め、18年にオリックスに一軍打撃コーチとして復帰。今年から総合建設業「共栄組」に籍を置き、JSPORTSの解説、神戸中央リトルシニア、関西創価で指導している。

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