【藤井康雄連載コラム】チームに浸透した門田さんの〝重ティー打撃〟

2020年10月14日 11時00分

ブルーサンダー打線の主砲・門田

【藤井康雄「勇者の魂」(2)】1989年は阪急が「オリックス・ブレーブス」に生まれ変わって1年目。南海から主砲の門田博光さんが加わり、松永浩美さん、ブーマー・ウェルズ、石嶺和彦さんらの強力な打線が組まれました。「ブルーサンダー打線」と呼ばれ、そこに僕も加わることができた。

 でも昔からいる選手と外から来た選手じゃ違うし、門田さんはそこに入っていきにくかったんじゃないかと思います。門田さんは福良淳一さん、石嶺さんとか、麻雀のメンツとは話していましたよ。僕はやらなかったけど、やってたらかわいがってもらったかもしれないね。寡黙な人ですよ。

 門田さんって糖尿なのに、試合前にロッカーで若手の松山秀明(ソフトバンク二軍コーチ)に「おい、コーラ買ってきてくれ。2本」と頼んだことがありました。松山は「1本ごちそうしてくれるんだな」と思って買ってきたら、2本続けて一気飲みされたって(笑い)。あまり若い選手をメシに連れて行くような人ではなかったし、打撃のことを聞きに行ったりもなかったですね。

 門田さんの練習法は独特で重いボール、重いバットで黙々とティー打撃をやる。キャンプでも1人でずっとマシンを打っていた印象があります。スピードボールに対応するため、門田さんはマシンのスピードを上げるんじゃなくて、自分からマウンド寄りに近づいて打っていました。40歳という年齢もあって反応をよくすることを考えてのことですよ。そんなやり方をやってたのは門田さんだけですよ。

 重いボールのティー打撃はずっと僕もやっていたし、その練習法は後年もしばらくオリックスに残っていました。普通のボールと違って鉛が入ったものを用意して、普通のバットを使うと手首を壊すからバットも重いのを使っていました。門田さんがチームに持ち込んだ練習法だったし、僕もこれがいいんだ、と思ってね。考え方とかを門田さんに聞いたりはできないから、見よう見まねですよ。僕やほかの選手も取り入れてやっていましたね。

 後年、引退された後に門田さんが「俺がいい練習法を残してやった」と何かで言ってました。現役時代にやったこととしてね。背中を見せていたということですよ。門田さんがチームを離れてからも4~5年はその練習を続けていた選手もいたけど、用具係も重いボールを用意しないといけないわけだし、徐々になくなっていきました。

 その年は開幕からオリックスは8連勝の快進撃でした。ブルーサンダー打線が爆発し、自分のチームながらベンチで感動するくらいすごかった。まとめ役なんかいなくて、みんなバラバラでも、個々の力がすごかった。1番・松永さん、3番・ブーマー、4番・門田さん、5番・石嶺さん、6番の僕は走者をかえすことだけに徹していました。チームワークはまったくない(笑い)。

 ☆ふじい・やすお 1962年7月7日、広島県福山市出身。泉州高(現近大泉州)から社会人・プリンスホテルを経て、86年のドラフト4位で阪急に入団。長距離砲としてブルーサンダー打線の一角を担った。オリックスでも95、96年の連覇に貢献。勝負強い打撃が持ち味で、通算満塁本塁打(14本)は歴代3位。代打満塁本塁打(4本)は日本記録。2002年に引退後はオリックス二軍打撃コーチ、11年からソフトバンクで一軍打撃コーチを務め、18年にオリックスに一軍打撃コーチとして復帰。今年から総合建設業「共栄組」に籍を置き、JSPORTSの解説、神戸中央リトルシニア、関西創価で指導している。

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