昭和の球宴史に刻まれた男たちの名言②

2020年10月11日 10時00分

広島・重松良典球団代表

【越智正典 ネット裏】昭和29年、球宴第1戦の一週間前から後楽園球場の正面玄関前にMVPに贈られるホンダのオートバイ、ドリーム号が飾られていた。本田技研が四輪製作に移行する前のバイクで、戦後の苦しい時代を乗り越えて来たファンはこの大型バイクを囲んでうっとりしていた。バイクは「オールスター男」と呼ばれることになる、毎日の山内一弘が獲得。山内は親会社の毎日新聞社に寄贈したが、毎日の「安打製造機」榎本が言った。

「オールスターゲームはヤマさんの賞品を運ぶ日です」。表彰式が始まると、榎本はパン100個など山内の賞品を運ぶのに忙しかった。終わって鷺宮4丁目の家に帰る途中、ひょいと「おばあちゃんが甘く煮てくれた栗をもう一度食べたいなあ」。少年時代父親は出征していた。

 関大で大学日本一、34年阪神入団。甲子園球場での開幕第1戦で国鉄の金田正一と渡り合い、3対0、2安打完封勝利の村山実は、その34年、球宴第1戦の西宮球場で先発でデビューするのだが、試合前「どこに行ったのかなあー」。グラブを探し始めた。ない。30分近くたって「あったあー」。緊張でベンチの屋根の上に置いたのを忘れていたのだ。この「あったあー」があの力投の村山の球宴第一声だった。純情だった。

 清原和博が球宴に出場したのはPL学園から西武に入団した第一年で、61年の第1戦、後楽園球場でセの練習が始まるとパのベンチのとなりのロッテの高沢秀昭に「あっ! テレビで見た人と同じ人がいる!」。清原もまた純情だった。

 50年7月19日、甲子園での球宴第1戦、1回山本浩二が左翼に2ラン。衣笠祥雄がソロ。広島はまだB級チームだったが2回に山本浩二が2打席連続の3ラン。すると衣笠も2打席連続左翼弾。二人を打たせたのは、代表重松良典、カープに赤ヘル黄金時代をもたらしたのも彼である。

 重松は49年1月8日、東洋工業の経理課長から着任。腹が据わっていた。合宿の食事の予算を撤廃。「選手においしいものを食べさせてくれ。高カロリーで頼みますよ」。賄いさんがハッスル。

 すぐにキャンプ。重松は早朝から練習が終わる日暮れまでグラウンドに立ち尽くす。「きょうも立っていなさる」。日南の人々が心から尊敬する。重松はサッカーが日本リーグの時代に普及、国際展開に尽力。チーム運営に深く、選手の気持ちの理解にも深い。山本浩二、衣笠に言い放った。

「セのベンチの一番前の席に座ったら小遣い10万円」。二人がうしろの席にいるようでは勝てないと見たのだ。

 後半広島は勢いに乗った。10月15日、後楽園球場で巨人を破り結団以来初の優勝を決めた。その晩苑田聡彦らは向島の料亭で三味線のリードで小太鼓を叩いて賑やかに祝勝宴。重松は東京遠征の宿、両国のホテルの自室でひとり水割り。「15秒に一粒、涙がポトリと落ちて来ましてな」。重松の涙はものいわぬ喜びのトロフィーといえた。ルーツが15試合で退団した事態を治めた監督に、古葉竹識を起用したのも重松良典である。

 =敬称略=

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