震災の日にV奪回誓った和田監督「最下位の悔しさ忘れない」

2014年01月19日 11時00分

阪神・淡路大震災の復興のシンボルである鉄人28号の前でポーズを取る和田監督(左)と楊枝氏
楊枝秀基のワッショイ!!スポーツ見聞録
【阪神・和田豊監督(51)】

 6434人が亡くなった阪神・淡路大震災。発生から19年を迎えた17日、神戸市長田区での復興フリーライブ「ONE HEART(ワンハート)」に阪神・和田豊監督(51)がゲスト出演した。そんな虎の指揮官をスポーツライターで神戸市出身の楊枝秀基氏(40)が「ワッショイ!! スポーツ見聞録」(不定期連載)で直撃。当時の印象から今季へ懸ける思いに迫った。

 ――あの阪神・淡路大震災当時、1月17日をどこで迎えたか

 和田監督:前日の1月16日の夜、いつも自主トレをしていた滋賀の大津に入り、その翌朝に震災が起こった。滋賀でも震度5で相当な揺れを感じた。テレビをつけた時、見覚えのある場所の家屋が倒壊したり、燃えていたり…。亡くなった方の数がどんどん増えていって、相当なショックを受けた。

 ――西宮市内に残してきた家族が心配だったのでは

 和田:当時は携帯電話もまだまだ普及していなかったので、とにかく連絡が取れなかった。心配で着の身着のまま大津を出て、神戸に向かったものの、電車では梅田(JR大阪駅周辺)までしか移動できず、そこからは歩くしかなかった。家に着いた時には夜中の3時。それでも家族の顔を見てやっとホッとできた。家具はすべて倒れて、食器は壊れているし、相当に怖い思いをしただろうなと思った。周囲の家屋も倒壊していて、そんな中でよく生きていてくれたなと思ったね。

 ――キャンプインまでは体づくりどころではなかったのでは

 和田:そういう気持ちにはなれなかったね。自主トレ先の大津に家族で一時避難して、少し落ち着いた時には、とにかく何かをしないといけないという気持ちになった。街が機能していた滋賀で、水だとか電池だとかを買い込んで西宮に帰って、避難所に配ったりとか動き回ったのを覚えている。

 ――当時、阪神の主力選手として、その行動が周囲を勇気づけたのでは

 和田:野球で皆さんを勇気づけたい。そういう気持ちは特に強かった。あのシーズンはオリックスが『がんばろうKOBE』のワッペンを着けて優勝した。一方で阪神は最下位。その時の悔しさ、申し訳なさは忘れない。チームの中心としてふがいなさを感じながらプレーしていたのを思い出す。

 ――震災から19年を経て現在は阪神の監督。今シーズンを迎える上での心境を聞かせてほしい

 和田:もう19年たっていて、復興はかなり進んでいるようには見える。でも、普通の生活を取り戻している人もいる中で、まだ仮設住宅で生活されている方もいらっしゃる。本当の意味での復興は皆さんの心の中にあると思う。阪神自体も9年、優勝から遠ざかっているからぜひリーグ優勝して、この神戸でパレードを見ていただけるようなシーズンにしたい。神戸の皆さんに元気を分けられるようにしたいね。

☆ようじ・ひでき=1973年、神戸市出身。関西学院大卒。98年から「デイリースポーツ」でプロ野球担当記者として活躍。巨人、ヤクルト、西武、近鉄、阪神、オリックス担当を歴任。2009年にはWBC取材班キャップとして2大会連続世界一を体感した。13年10月独立。ライター離れしたファッションセンスとトーク力で取材を展開。プロ野球だけではなくスポーツ全般、格闘技、芸能とジャンルにとらわれぬフィールドに人脈を持ち個性派路線を貫く。12月からアメーバブログ「楊枝秀基のワッショイ!! スポーツ見聞録」を開設した。