【越智正典 ネット裏】昭和49年、王貞治は6月に阪神の田淵幸一に9本塁打の差をつけられていた。34歳。が、夏の終わりに田淵を抜き、秋に2度目の三冠王を目の前にしていた。

 王はこの日も打撃日記を書き続けていた。

「10月7日 ステップをして打つのではなく、打つためにステップをするのである」

 首位打者7回、生涯打率3割1分9厘。浪商、東映、巨人の左打者張本勲も右足の運びに名言を残している。

「…さざ波のように…」

 美しい。

 王は続けている。「打撃とは投手の球の離れるところに全神経を集中してボールをよく見ること、否、見るのではなく凝視するのである」。通算本塁打868、本塁打王15回。

 現役後、三塁コーチを務めた黒江透修はいう。

「ビールだって868本飲むのは大変だ! 王さんは凄い。ホームランを打って三塁を回るとき唇がブルブルふるえていることが何度もありましたよ」。そういう黒江も純情だった。台湾生まれ。7歳のときに終戦。父親は海軍相撲の横綱。父の故郷鹿児島県姶良町(市)に引き揚げて来て野球を始めた。

「なんとか2割5分を打ってONがいるあの打線にギリギリで入りたいと思って荒川道場に通いました」。3割…などとは言っていない(荒川博の葬儀の日、東京中野、宝仙寺で)。

 千葉の秀才校、県立成東高校のエース、48年ドラフト1位で中日に入団した鈴木孝政は「(打席に立った)王さんの目の光りにやられました」というが父親武男さんは王貞治が大好きである。

「私は若いときに三河島の精肉店に奉公してました。八広で店を開いたばかりの王さんちに配達に行きました。いつ行ってもご夫婦は働いていました。いつねむるんだろうと思いました」

 終戦後、九十九里の蓮沼村(山武市)に帰り精肉店を始め、店は繁盛。「裸一貫」、見事な書がある居間のテレビの前で王を応援していた。口癖は可愛くてならないのに「孝政の親不孝め!」。名古屋で一生懸命働き、栄転で千葉に帰って来ると思い込み、ジャガイモ畑を200坪宅地にして総二階の立派な家を建てた。

「コロッケがいくつ作れると思っているんだ!」

 日本にはガンコ親爺が多かった。

 中日にもうひとり。40年金沢高校から入団した竹内洋は俊敏捕手。フットワークが素晴らしかった。翌春のキャンプからショートにコンバートされることになった。スポーツ新聞で知った父親、大工の棟梁、喜久治さんが金沢から押っ取り刀で、入団のときの担当スカウト、名古屋市昭和区鶴羽町の柴田崎雄の家に駆け付けて来た。

「大工だって一人前になるにはどんなにはやくても10年かかる。それがたったの1年で左官屋をやれ! と言うんですか。息子にもっと修行させてやってくれ!」

 柴田は感激した。

 私は平成元年7月4日、金沢でばったり竹内洋に会った。名刺をもらった。

「北陸中日新聞営業部販売部」

 背広姿が凛々しく、よく似合っていた。うれしかった。

=敬称略=