【平岡洋二「アスリートの解体書」(4)】並々ならぬ努力により40歳を超えても第一線で活躍していた金本知憲にもついに“その日”は訪れた。運命の日の前夜、金本から「明日、引退発表」とのメールが入った。「は? 本当か?」と私。今まで何度担がされたか。自らの引退さえネタに仕掛けかねない20年来の間柄だったが、このときばかりは早朝から周りのごく親しい人間に確認に走った。そうこうしているうちに本人からの電話が…。信じないわけにはいかなくなった。現実だった。

 近い将来、起こりうる事実だろうと覚悟はしていたが…。誰しも訪れるのだが、「鉄人」はそれすらはねのけると勝手に思い込もうとしていたのかもしれない。半月板損傷による2年連続のヒザの手術。追い打ちをかけるように右肩の棘上筋断裂。着替えすらまともにできない状態。並の選手のパフォーマンスならまだしも「鉄人・金本」を演じにくくなったのだから冷静に判断すれば潮時なのかもしれない。

 通算の打撃成績はすべての部門で歴代の上位に名を連ねる本人が、最も誇らしく思っているのは連続無併殺打の記録だという。その数1002打席。永久に破られないであろう記録だからだけでなく「全力疾走」という金本の野球に取り組む真摯な姿勢を表す数字だ。

 プロ野球人生のスタートとなった広島での最終戦に続いて、甲子園球場での引退試合もしっかりと見届けさせてもらった。本拠地はともかく、敵地マツダスタジアムでもホームチームの選手かと錯覚するほどの応援ぶりには改めて驚かされた。長いプロ野球史上でもトップクラスの選手の引退に敬意を払っての声援だったのだろう。その一戦を観戦しながらFA移籍後初の旧広島市民球場での試合を思い出していた。

 その後、同じくFAで阪神に移籍した新井貴浩が同球場での初戦で地鳴りのような大ブーイングで出迎えられたことからも分かるように本来、広島ファンは巨人や阪神のような金満球団へのFAでの移籍者は許さない。それが金本の時は拍手で出迎えたのだった。本人も当時「感激した」と言っていたものだ。引退時もファンばかりか、広島の松田元オーナーが試合前の阪神ベンチを訪れ、ねぎらいの言葉をかけたようで「あいさつに行こうと思っていたのに先に来ていただいた」と恐縮しながらも喜んでいた。

 生涯最高成績(40本塁打、125打点、打率3割2分7厘)の達成時の年齢は37歳。2度の優勝に貢献しながら大半を4番として出場し続け、1492試合でフルイニング連続出場の世界記録が途切れたのが42歳。35歳以降の安打数が生涯安打の半数を優に超え歴代1位。トレーニングによるアンチエイジング効果をも証明してくれた。日本のプロ野球界におけるウエートトレーニングのパイオニアと言っても過言ではない。現在多くの選手が当たり前のように取り組んでいるのも彼の功績といえる。

 ただ、驚くことに前述の広島での最終戦翌日の10月1日、金本はいつも通りトレーニングに訪れた。引退を表明し現役残り数試合の選手が、である。「ちょっと脚の筋力が落ち気味なんで」などとは言っていたが、21年間の1500回を超えるトレーニングの場所や私に引退のけじめとして謝意を表しに来てくれたのだと思う。まさしく金本という選手・人間性を端的に表す出来事であった。

 ☆ひらおか・ようじ「トレーニングクラブ アスリート」代表。広島県尾道市出身。広島大学教育学部卒業後、広島県警に勤務。県警での体育指導を経験した後、退職しトレーニングの本場である米国で研修を積み、1989年広島市内に「トレーニングクラブ アスリート」を設立。金本知憲氏(前阪神監督)や新井貴浩氏(元広島)、丸佳浩(巨人)ら200人に及ぶプロ野球選手を始めJリーグ・サンフレッチェ広島やVリーグ・JTサンダーズ広島など数多くのトップアスリートを指導する。また社会人野球や大学野球、高校野球、ホッケー日本代表などアマチュア競技のトレーニング指導にも携わり選手育成に尽力。JOC強化スタッフ、フィットネスコーチなどを歴任した。実践的なトレーニング方法の普及のためトレーナーを養成する専門学校での講義なども行っている。ジムのHPは「athlete―gym.com」。