【越智正典 ネット裏】翌日は新人長嶋茂雄が明石(兵庫県)キャンプにやってくるという昭和33年2月15日の夜、巨人軍監督水原茂はキャンプの宿大手旅館の監督室に投手堀内庄を呼んだ。堀内は29年松商学園から入団。ときは晩春。自己紹介。この29年は巨人のキャンプは後楽園競輪場、千葉県木更津、明石と慌ただしく、二軍もやっと落ち着いたときである。

「ボクのポジションは麦畑です」

 多摩川グラウンドはまだなく(開設30年7月)、多摩川寮の前の土堤の下の原っぱを練習に借りていた。ライトのうしろが多摩川。センターのうしろに向かってゆったりと流れている。レフトのうしろが麦畑。麦のなかにかくれているから球ひろいもラクですよ、というのである。頬がゆるんだ。のびやかである。

 堀内庄は32年、捕手藤尾茂(鳴尾高、28年入団)とともに水原に引率されてドジャースのキャンプへ。巨人投手ベロビーチ第1号である。31年秋、日米野球で来日したドジャースの速球投手ドン・ドライスデールと仲よしで堀内も速かったあー。

「庄よ」

 水原がいった。水原はいつもなら新人がキャンプにやってくると、全選手円陣のグラウンドで「みんな、新しい弟が増えたと思って可愛がってくれ!」と紹介する。29年入団の遊撃手広岡達朗(呉三津田高、早大)はのちのちまでも「あんなにうれしいことはなかった」と語っているが、川上、千葉、別所…の猛者チームに入るのが不安でならなかったのであろう。

 長嶋が明石に入る2月16日は巨人は練習休みであるが「あした長嶋がやってくる。いくら騒がれたってプロじゃ、まだ赤ん坊だよ。庄が本気で投げたら打てやせんよ。だからな。長嶋にそっと投げてやってくれ」。ニクイおやじである。堀内庄に天下を取ったような幸福な思いがひろがって行った。

 翌々日、キャンプに32年かぎりで背番号「1」の現役ユニホームを脱いで評論家になった、長身の南村不可止(市岡中学<高>、早大、横浜金港クラブ、西日本パイレーツ、巨人)が取材にやって来た。水原に挨拶。南村は球団が29年キャンプなかばに名三塁手宇野光雄を将来の監督含みで、国鉄スワローズに送り出してから水原が苦労したのをよく知っている。

「守備また攻撃なり」と叫んだが、ハワイ出身の柏枝文治、外野手の岩本堯、ショートの広岡達朗だれを持ってきても三塁が埋まらない。エラー続出。「このたびは長嶋君の入団おめでとうございます。三塁が埋まりますね。ご苦労さまでした。それだけにケガが心配ですね」

 すると水原。「ナンちゃん、何年野球をやって来たんだ。長嶋がケガをする選手か、どうか、見ればわかるだろう」。ピューと口笛を吹いた。

 長嶋茂雄が試合前に「うー、背中に電気が走る、うー」といい出すのはこれからである。ずうーとあとのことになるが、バッターボックスでマウンドの星野仙一に「ハーイ、仙ちゃん、さあーいらっしゃい!」と叫ぶのもこれからである。 =敬称略=

 (スポーツジャーナリスト)