森、国松…巨人昭和30年組のささやかなご褒美メシ

2020年07月29日 16時00分

ホームランを打った国松(中)を迎える荒川コーチ(左)と森(1965年)

【越智正典 ネット裏】この前、ごはんの話をしたが、巨人軍多摩川寮でそれまで盛り切り一杯だったごはんがおかわり自由になったのは、なんと終戦から12年、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」がヒットした昭和32年になってからである。


 現役のユニホームを脱いでこの年二軍監督になった千葉茂が、多摩川寮所管の本社厚生課に話をしたのだ。知らせを聞いた巨人の若者たちは十時啓視(岩国高、昭和30年入団、外野手、のちに元気一杯の「野次将軍」)の音頭で万歳三唱した。現役後、十時は辞典や教科書などを印刷製本する「光写真印刷」の社長になると、蒲田駅のそばの本社ビルの社長室に、おかわり自由の日の記念写真を飾っていた。


 同じ昭和30年、同志社大学から入団した左腕投手(のちに外野手、名2番打者、二軍監督…)国松彰は多摩川寮のそばの土堤下の店で1個10円のコッペパンを買って朝晩食べていたが、給料日には奮発して5円足してピーナツバターを塗ってもらった。巨人というとすべてにゼイタクというイメージが強いが、そうではない。


 話は昭和28年秋にさかのぼる。日米野球でNYジャイアンツが来日、銀座をパレード。都電が止まった。ファンはジャイアンツが名門なのを知っている。10月31日、巨人がそのジャイアンツを破った。2対1。対大リーグ単独チームの初勝利である。


 投の殊勲は大友工。軟式野球の大阪逓信講習所、但馬貨物。昭和24年入団、二軍暮らし。夜は硬球をにぎってねむりに就いた。昭和28年に開花。27勝6敗、最多勝、勝率、防御率第1位で投手三冠。最優秀投手、最高殊勲選手。沢村賞。大友は満を持してジャイアンツと対戦した。


 サイドスローから投げ込むストレート、シュートボール。まるでジェット機が離陸するときのような浮き上がるスライダー。いま多くの投手が投げているスライダーは沈む。カーブの一種と言ってもいいだろう。高めの釣り球も見事だった。


 打の殊勲は遊撃手平井(旧姓生田)三郎(一時正明、徳島商業、明治大学、全徳島、阪急、西日本、昭和26年巨人)。好投していたウイルヘルムをとらえて勝利のホームラン。平井はその晩銀座へ呑みに行かなかった。新宿西口の「ほしの」でとんかつを食べていた。とんかつが快打の晩のグルメだった。


 昭和30年、岐阜高校から入団した捕手森昌彦(祇晶、名リードのV9捕手、西武監督、日本一6度、2005年殿堂入り)が“抜擢”されて一軍の練習手伝いに行くことになったのは、巨人軍結成時の総監督市岡忠男(早大捕手)が正力松太郎に将来の基幹選手に修行を…と進言したのに始まる。


 森は試合が終わると国電で水道橋、代々木、渋谷。東横線で帰寮する前に、駅前でおかずに…と一袋100円の“ウインナーソーセージ”を買った。本当のソーセージではない。多摩川寮の食堂に森のごはんと味噌汁がポツン。冷たくなっている。たったひとり。そんな日々を森は越えて来たのである。 =敬称略=


 (スポーツジャーナリスト)