【高橋雅裕「道なき道の歩き方」(8)】プロ14年目のシーズンを終えた1996年のオフ、僕はフロントに「若い選手を見てやってくれ」と言われたんです。一軍に上がらない、かといってコーチの肩書もつけないと…。選手としてやって一軍にも上がれず、細々と辞めていくことになるんですか?という話です。それで当時の大堀隆社長と直接話をし、トレードを考えようか、ということになったんです。お願いしますと…。

 その時のトレード話はうまくいかなかったんですけど、後日、たまたま95年まで横浜で監督をやられた近藤昭仁さんがロッテの監督になることになった。近藤さんから連絡をもらい「なんで試合に出てなかったんだ」と聞かれ「僕に責任があるとは思いますけど、ケガとかではないです」と…。それで金銭トレードという形になったんです。

 14年間、お世話になった横浜を離れる。勝てなかったけど、チームが嫌になったわけではないし、僕がまだ現役にこだわったということです。野球人生が終わるかもしれない、という時にまた運よく現役を続けることができる。見返してやろうという気持ちがありましたね。一番、感謝しているのは…87年から3年間、見てもらった古葉竹識監督で、僕の下地になっている。考え方に賛同し、僕が後年に指導をできるようになったのも古葉さんのおかげと思っています。

 声を掛けてくれた近藤さんにも感謝しているし、近藤さんじゃなかったらロッテに行っていなかった。でも、ロッテに入って近藤さんから不可解な二軍落ちを言われたことがありました(笑い)。入団1年目の97年のことです。レギュラーで生え抜きだったユーティリティーの五十嵐章人とショートの南渕時高の2人の調子が上がらなかった。近藤さんは小坂誠をレギュラーとして使いたかったし、堀幸一をセカンドにすることで南渕があぶれてしまった。でも前年までレギュラーだった2人を一緒に二軍に落とせないからって「お前も一緒に落ちてくれ」って(笑い)。

 近藤さんも1年目だし、生え抜きを2人落としてヨソから来たお前を残しておくわけにはいかないから付き合ってやってくれ、みたいな。僕も「あ、はい…」って、怒るより笑うしかなかったですよ。

 僕って98年の18連敗の時も二軍にいて居合わせていないので、僕には原因はないぞと(笑い)。テレビで見てましたけど、できる自信はあったし、俺を置いとかないからだ、くらいに思っていました。その時期に二軍監督だったのが山本功児さん。若い連中に負けまいと一生懸命にやっていた僕を評価してくれていて「悪いなあ。ベテランなのに」って。僕も「気にしないでください。監督の好きにやってください」って。それで翌99年、近藤さんが辞めて功児さんが一軍監督になられたとき、僕を一軍に呼んでくれたんです。「見本になってくれ」と…。