【高橋雅裕「道なき道の歩き方」(7)】近藤昭仁監督の2年目の1994年、FAで巨人から駒田徳広さんが横浜に移籍してきました。すごい数字を残しているのでチームにとってプラスアルファになるだろう、と思っていましたが、僕の中では駒田さんに対して思うところが少しあった。

 ある日のヤクルト戦で先発が石井一久。駒田さんは巨人時代からあまり石井を打っていないということでした。そしたら球場に着くと駒田さんは片頭痛ということで、僕が一塁を守ることになったんです。なんで俺が一塁?と思ったけど、ファーストミットを持っていたし、試合に出られるならと思ってスタメンで出ましたよ。そしたら試合途中で石井が降板したら駒田さん、代打で出てきた(笑い)。片頭痛は治ったんですかね。これは駒田さんがどうこうというより、首脳陣が気を使っていたんでしょう。

 駒田さんとは守備中にもちょっとしたことがありました。一塁が駒田さんで僕が二塁。僕が必死に一、二塁間のゴロを捕って、駒田さんに投げたらボールが右にそれちゃった。駒田さんから見たら左から走者が突っ込んでくる側にボールがそれたから、ファーストミットを引っ込めたんですよ(笑い)。

 駒田さん「危ないやないか。あんなとこ投げたらぶつかるやないか」って。こっちは必死こいて投げてそれはないでしょう(笑い)。捕ったらアウトなのに、自分の身が危ないからってファーストミット引っ込めますかねえ。

 あと横浜スタジアムでのこと。負け試合があってミーティングが終わり、僕がロッカーに戻って食事の店の予約をしたんですよ。そしたら駒田さん「おまえ、負けてすぐにロッカーからそんな電話すんなよ」って。僕もこれはまずいと思って「あ、すいませんでした」と…。悪かったな、と自分でも思いました。

 でも駒田さん、権藤博監督の時に試合途中で下げられ、ロッカーから奥さんに電話してそのまま帰ったことがあったんですよ。そっちの方がダメだと思いません? それはあかんでしょう。後年、楽天で一緒になったりして理解し合えたと思いますけど、横浜時代はあまり関係が良くなかったんですよねえ。

 横浜は結局、その年も最下位。ベテランを大量解雇し、駒田さんが加入しても結果に結びつかなかった。監督へのファンからの批判も多かったと思いますけど、じゃあベテランが残っていたらどうだったか、なんてわからない。難しいところですよね。

 95年は大魔神・佐々木主浩が最優秀救援賞を獲得、打者では鈴木尚典が台頭するなど、チームは4位ながらも12年ぶりに勝ち越しを決めました。近藤さんは3年で退任、今度はバッテリーコーチだった大矢明彦さんが監督に昇格しましたが、低迷を脱することはできませんでした。

 僕は14年目のシーズン後、フロントから「若い選手を見てやってくれ」と言われたんです。コーチでもないし、どういうこと?

☆たかはし・まさひろ 1964年7月10日、愛知県豊明市出身。名古屋電気(愛工大名電)で1981年夏の甲子園大会に出場。82年のドラフト会議で横浜大洋に4位指名され、入団。内野手として88年に全試合に出場。88年から89年にかけて遊撃手の連続無失策(390連続守備機会)を記録した。96年オフにロッテに移籍し、99年に引退。2000年からロッテ、楽天、横浜で守備、走塁コーチを歴任した。11年には韓国・起亜、16年から4年間はBCリーグ・群馬でも指導した。現在は解説者や少年野球の指導にも当たっている。