【正田耕三「野球の構造」(最終回)】早いもので当連載は今日で40回目。いよいよ最終回を迎えてしまいました。いろいろと書くネタはありますが、最後は引退の話で締めくくろうと思います。

 僕がユニホームを脱ごうと本気で考えたのは、実際に引退する前年の1997年でした。記憶違いでなければ、7月17日からのナゴヤドームでの中日3連戦だったと思います。

 同年は開幕から7番を打っていましたが、打率2割を行ったり来たりと低空飛行。6月に入るとベンチスタートが続き、前半戦終了時には打率1割9分5厘と散々な成績でした。そんな矢先に名古屋市内の宿舎で球団本部長だった上土井勝利さんの部屋を訪ねて「今年で辞めたいと思っています」と告げたのです。

 しかし、上土井さんの答えはNO。「最後のつもりで、もう1年やれ」と引退は却下され、98年はコーチ兼任として再スタートを切ることになりました。「どこまでやれるか分からないけど、頑張ってみるか」。そんな気持ちで新たなシーズンに臨むと、結果が伴うようになるのだから不思議なものです。開幕当初は笘篠賢治との併用でしたが、あれよあれよという間に僕が「2番・二塁」に定着。最終的には規定打席にも到達して打率2割7分4厘とまずまずの成績を残すことができました。

 上土井さんからは球宴期間中に「3割打っても今年で終わりだぞ」とクギを刺されていました。おそらくドラフトで近大の二岡智宏を獲得して遊撃に据え、野村謙二郎を二塁に回す構想があったのだと思います。まあ、結果的に二岡は逆指名で巨人に入団してしまいましたが…。

 ただ、僕としては最後の1年でやるだけのことはやりました。後悔もありません。まさに完全燃焼です。だから球団が用意してくれた9月29日の中日戦での引退試合でも涙は出ませんでした。2日前に行われた大野豊さんの引退試合では「もう大野さんとプレーすることもなくなってしまうのか」と思ったら涙があふれ出てしまったんですけどね。

 8回の最終打席は門倉健の速球を打ち損じて二ゴロに終わりましたが、一塁側内野席で見守ってくれた両親の前で最後の雄姿を見せることができて、本当に幸せだったと思います。最後のスピーチでは「小さな体を補うために何をすべきか…その答えは人に負けない練習と努力でした」と胸を張って言うことができました。

 小学校3年で野球を始めて28年、その後の日本と韓国でのコーチ時代も含めれば野球に携わって50年になりました。ここまで来られたのは指導してくださった監督やコーチ、練習や体調管理を支えてくれたスタッフ、応援してくれた家族やファンのおかげです。人との出会いこそが僕の財産であり、原動力でした。この連載を通じて、僕自身がどれだけ多くの人に支えられてきたかを再認識した次第でもあります。

 現在は久しぶりにユニホームを着ない生活をしていますが、今後も何らかの形で野球界に携わっていこうとは思っています。またいつかお会いしましょう。 

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。