大阪の合宿所から三原脩の西鉄は強くなった

2020年07月02日 11時00分

【越智正典 ネット裏】昭和31年から33年にかけて日本シリーズで巨人を破った西鉄ライオンズのあの黄金時代は、三原脩が福岡の合宿所を撤廃したときに幕をあけた。

 サイゴン(ベトナム・ホーチミン市)で終戦を迎えた三原が復員してくると“猛牛”千葉茂らが待っていた。巨人は戦後再開のプロ野球で勝てなかった。「三原さんに監督をやってもらうしかない」。三原は高松中学、早大、全大阪、プロ野球契約第1号選手。昭和9年6月、巨人軍の編成に着手した日米野球全日本の監督市岡忠男は三原は必ず巨人軍の柱石になると確信した。三原は日米戦後に兵役のため退団した。

 11年、巨人の第2回渡米遠征中に監督に就任した藤本定義(松山商業、早大、東京鉄道局)が二塁兼で助監督をと、その日3度も成城の家にやってくる。「これ以上お断りするのは失礼に当たる」と、三原は巨人復帰を承知した。

 その昭和11年、残暑きびしかった9月、巨人は群馬県茂林寺で猛練習。「藤本監督の千本ノックに真っ先に飛び込んで行ったのは三原さんでした。凄かったあー」。マネジャー飯泉春雄がのちのちまでも讃えていた。この茂林寺の猛練習が巨人軍の伝統になる。巨人は12月9日から始まったタイガースとの「日本一王座決定戦三本勝負」に勝つ。沢村栄治が3連投。三原は景浦将の豪球を叩き、快走。巨人ナインは洲崎球場のベンチ前で円陣を組んで泣いた。

 昭和24年、巨人は勝った。戦後初優勝である。千葉らの想いに心打たれて昭和22年に監督に就任した三原の苦心の結晶である。巷では「長崎の鐘」が歌われていた。昭和25年の人事が決まった。

 昭和24年7月にシベリア抑留から帰還した水原茂が新監督。三原は総監督。優勝監督は続投が不文律なのに、解任されたのだ。総監督というと世間に聞こえがいいが窓際に追いやられた。三原は昭和25年を多摩川で過ごした。

 知ってのとおり昭和25年は2リーグ分立の年であるが、福岡に「西日本パイレーツ」セ、「西鉄クリッパーズ」パ。やって行けなくなるのは必至だった。

 両球団は合併し「西鉄ライオンズ」パが誕生した。監督就任を要請された三原は、新橋駅のそばで南村不可止に会った。早大の後輩の挨拶に肯いた三原は「不信の座にいるより新天地で餓死したほうがましだ」。新橋から夜行列車で去った。

 着任した三原は南海本線石津川駅(大阪・堺市)のそばの西日本鉄道社員寮に目をつけ新合宿所にした。西鉄の試合は福岡、関西、東京…、東上西下である。遠征に出ると石津川で不振の選手を落とした。選手たちは本隊が石津川に戻ってくるのを待った。誰もが博多へ帰りたい。腕を磨かなければ彼女にも逢えない。

 彼らはグラウンドを探して練習。借りられないときは南海、阪急二軍に頼んで練習試合。こうして名救援の島原幸雄、度胸の河村英文、高いボール球をヒットする河野昭修らが博多に集まってくると、三原はここという勝機に代打、代走、救援。ベンチの選手を総動員して怒涛のように勝ち進んだのである。

 高倉照幸がよく言っていた。「石津川に残されるとグラグラきたよ」 =敬称略=