【正田耕三連載コラム】三村監督に教わった「一流の脇役を目指せ」が僕を変えた

2020年07月02日 11時00分

「走り待ち」でサヨナラ打を放った

【正田耕三「野球の構造」(39)】チームスポーツである野球には役割分担があります。4番打者のような長距離砲ばかりを並べても得点力が上がるわけではありません。何としてでも塁に出る人、走者を効果的に進める人…。いろんなタイプの選手がいてこそ攻撃のバリエーションも増え、文字通りに「打線」となります。

 1994年に監督就任1年目の三村敏之さんが遠征先の富山市で城址公園の石垣を見ながら僕に伝えたかったのは、この考えでした。「逆立ちしてもエースや4番打者のようなスターにはなれない。だったら一流の脇役を目指せ」。分かっていたようで分かっていなかった自分らしい生き方。三村さんは監督を退任された後に出版された自著で、それを「超二流」と記していました。

 超一流と言われる選手は、努力だけでなれるものではありません。しかし、努力と心持ちで誰でも一流の脇役にはなれます。山本浩二さんや衣笠祥雄さんといった偉大な先輩たちは現役を退き、気がつけば野村謙二郎、緒方孝市、金本知憲、前田智徳、江藤智…と周りは後輩ばかりになっていましたが、僕の役回りは彼らを引き立てること。それに気づかせていただいたことで、気分もスッとしました。

 92年は右手首を故障して89試合の出場にとどまり、右打席に専念した93年はレギュラーに定着してからワーストの打率2割5分7厘と低迷。オフに右手首を手術して再び両打ちに戻した94年は、キャリアの終盤を迎えた僕にとって新たに野球を勉強するいい機会にもなりました。

 バッティングカウントでの「待て」のサインに不満を漏らすようでは、チームの士気も落ちるというもの。三村さんが勝つために私情を捨てて最善の策を選択していることを理解してからは3打席連続で「犠打」のサインが出ても、それが仕事と素直に割り切れるようになっていました。

 富山の出来事から2年後、96年6月21日の阪神戦ではこんなことがありました。舞台は同じ北陸の福井です。3―3の9回二死一塁で打席に入ると、ベンチからのサインは「待て」。左前打で出塁した一塁走者の緒方に二盗させ、一打でサヨナラという作戦です。

 しかし緒方がなかなかスタートを切れず、二塁を陥れたのは4球目。カウントは2―2と追い込まれていました。それでも僕はフルカウントに持ち込み、川尻哲郎の投じたスライダーを右翼線にぽとりと落としてサヨナラ勝ち。打ったことや勝ったこともさることながら、僕にとって最もうれしかったのは、三村さんに「走り待ち」を評価してもらえたことでした。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。

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