【球界平成裏面史(64) 近鉄編(5)】平成16年(2004年)9月24日、オリックスとの合併により消滅してしまう近鉄の本拠地・大阪ドームでの最終戦(対西武)には4万8000人の観客が詰めかけた。

 スタンドには「ありがとうバファローズ」「合併反対」「ファンを無視するな」といった横断幕が掲げられた。試合前のベンチ前では、礒部公一選手会長が「近鉄らしい、思い切った野球で締めましょう」と号令。午後6時にプレーボールがかかった。

 試合は接戦だった。5回まで西武が2―1とリード。その裏に2番手で西武・松坂大輔が志願のマウンドに上がった。この登板はトップだった防御率のタイトルを確実にするためのもの。1イニングをゼロとすれば、2位の近鉄・岩隈久志を圏外に追いやることができた。そこできっちり三者凡退とし、タイトルを当確とした。

 だが、松坂は6回も続投。近鉄の4番・中村紀洋とオール直球で勝負を挑んできた。中村紀は初球149キロ、2球目150キロをフルスイングで空振り。3球目の149キロを二ゴロと勝負はついた。タイトルがかかった状況で被弾のリスクを恐れず、がっぷり四つの勝負。スタンドは熱狂した。

 近鉄、西武は長くライバル関係にあった。近鉄・野茂英雄、西武・清原和博の「平成の名勝負」は今でも語り草だ。その系譜を継いだのが西武・松坂と近鉄・中村紀。中村紀は数年後に「もう今の時代、あんなことできんわなあ」と当時を懐かしげに振り返っていた。

 近鉄の大阪ドーム最終戦は2―2の同点のまま延長へ。11回一死二塁で星野おさむの右翼線への適時打で、文字通りのサヨナラ勝利となった。歓喜の輪ができたのもつかの間、その後に別れの儀式が控えていた。笑顔は直後に泣き顔に変わった。

 監督、選手、スタッフ全員で場内を一周。満員の右翼席をバックに多くの泣き顔の集合写真を撮影した。梨田監督は「お前たちがつけている背番号はすべて、近鉄バファローズの永久欠番だ」とナインに伝えた。感動的ではあったが、現実は変わらない。「合併、球団消滅」の将来は変わらなかった。

 6月30日の時点でライブドア・堀江貴文社長が近鉄買収を申し出たこともあった。だが、当時の近鉄本社・山口昌紀社長は「(ライブドアは)そこらのうどん屋のオッサンが球団買うと言ってるのと同じやないかい」と一蹴した。

 その後、合併が承認されるも12球団制存続のため、新規参入球団が募られた。ライブドアも手を挙げたが、少し遅れてIT大手の一つ楽天が参入し承認された。ヴィッセル神戸を運営していたため、本拠地候補を神戸としていたが、最終的に仙台に「東北楽天ゴールデンイーグルス」が誕生した。

 分配ドラフトを経てみんながバラバラになった。プロテクトされ、オリックスに移籍だったはずのエース・岩隈や選手会長・礒部は強い希望で楽天入り。平成14年(02年)オフにFA残留した中村紀は近鉄との契約を残したまま、ポスティングで米大リーグ・ドジャースとマイナー契約し渡米した。

 この合併は成功だったのか。当時の近鉄球団・小林哲也社長はその後、近鉄本社に復帰。同社の社長に就任した。つまり出世したのだ。近鉄球団という不採算部門を整理することに成功した手柄と理解すればいいのだろうか。

 当時を知る現役選手はわずか3人。巨人・岩隈とヤクルト・近藤一樹、坂口智隆のみとなる。「今でも思うね。どないかならんかったんかなってね」。そう口を揃えるのは、当時の足高圭亮球団代表と梨田昌孝監督だ。当時の担当記者である筆者もそう思う。