【正田耕三連載コラム】現役晩年の94年 三村監督に散歩で富山城址公園に誘われ…

2020年07月01日 11時00分

正田(左)に脇役の重要性を説いた三村監督。中央は山本一義チーフ兼打撃コーチ

【正田耕三「野球の構造」(38)】当連載も、そろそろ終盤戦に差しかかってきました。ここからは現役晩年の話をしていこうと思います。

 三村敏之さんが監督に就任した1994年、その後の野球人生を大きく左右する出来事がありました。僕の記憶が確かなら7月1日の阪神戦で、舞台は石川県立野球場。詳細は失念しましたが、走者を三塁に置いた場面だったはずです。カウントは3ボール1ストライク。僕が打つ気満々で打席に立っていると、三塁ベースコーチの高代延博さんから「待て」のサインが出ました。

 もちろんベンチの指示には従わなければなりません。ただ、なんで絶好のバッティングカウントで「待て」だったのか納得がいかず、試合後にバスで富山に移動してから三村さんの部屋を訪ねて「なぜ、あの場面で『待て』だったんですか?」とストレートに疑問をぶつけました。返ってきた答えは「今の前田と打率はどっちが上だ? より確率の高い方を使うだけよ」。反論のしようもありませんでした。

 94年は開幕から1番を任され、特に5月上旬のゴールデンウイーク中は絶好調で1日の中日戦から3安打、3安打、4安打。一時的に打率は3割6分7厘まで上がりました。しかし、5月末まで3割をキープしていた打率はじわじわと下がり始め、2割8分から2割9分を行ったり来たり。6月10日のヤクルト戦から打順も2番に下がっていました。

 それに対して開幕から4番を担い、4月末から3番に座っていた前田智徳は春先の低空飛行から上昇カーブを描き始め、打率も3割に到達。数字以上に勢いの差は明らかでしたが、改めて現実を突きつけられて気分がいいはずもありません。もやもやした気分のまま宿舎で朝を迎えると、三村さんから部屋に連絡がありました。「ちょっと散歩でもせんか?」と言うのです。

 2人で向かった先はホテルからも徒歩圏内の富山城址公園でした。三村さんは歴史好きでもありましたが、僕に見せたかったのは戦後に再建された天守閣や、その内部にある郷土博物館ではありません。お堀の手前で歩みを止めた三村さんは、静かな口調で諭すようにこう言いました。

「あの立派な石垣を見てみい。でも大きな石だけで、ああはならん。大きな石と小さな石がうまくかみ合ってこそ強固な石垣になる。分かるか?」

 野面積み、布積み、算木積み…。これを機にいろいろ調べたら工法も多種多様なようですが、いずれも個性の違う石を組み合わせて石垣になっています。三村さんの言わんとすることは、すぐにピンときました。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。

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