【正田耕三連載コラム】「その気になっとるんか!」大下さんの怒声が…

2020年06月30日 11時00分

大下ヘッド(右)と話す正田

【正田耕三「野球の構造」(37)】盗塁王のタイトルを獲得した1989年は、打撃でも満足のいく数字を残すことができました。巨人のクロマティが打率3割7分8厘と突出していたため3年連続の首位打者こそ逃しましたが、3割2分3厘はリーグ3位。161安打は同2位で、結果的にキャリア最高となりました。

 この年は山本浩二監督の1年目。例年以上に張り切らなきゃいけない年でもありましたが、本当の意味で僕の闘志に火をつけたのは東スポの専属評論家としてもおなじみの大下剛史さんでした。

 宮崎・日南での春季キャンプ中でのことです。右ヒザを痛めていた僕が別メニューで調整していると「2年連続首位打者で、その気になっとるんか!」という声が飛んできました。声の主は大下さん。せめてチームの役に立つことをしろと、外野での球拾いなどを命じられました。

 もちろん首脳陣の命令は絶対です。打撃練習時にはカーブマシンの横に立ち、打席内の若手に見えるようにボールを持った右手を高く掲げ「次、いきまーす」と声を出したりしていました。しかし、はっきり言って屈辱です。2年連続で首位打者にもなり、二塁手のレギュラーとして定着した僕が、なんでこんなことまでしなければならないのか…。「絶対に見返したる!」。右ヒザの状態が回復すると、その一念でバットを振り続けました。

 でも、今になって思えば当時の僕は大下さんの手のひらで転がされていたのです。もし「その気になっとるんか!」と言われていなければ、その気になって自分を見失っていたかもしれません。達川光男さんが「胃から汗が出る」と評した、軍艦マーチをBGMに約2時間のアップから始まる厳しい練習もしかり。雨でぬかるんだグラウンドを乾かすために灯油をまいて火をつけるなど驚きの連続でしたが、30歳を過ぎてもレギュラーでいられたのは、30歳を前に鍛え直してもらったからだとも思います。

 5年ぶりにリーグ制覇した91年には夏場に毎日のように外野を端から端まで走り回るアメリカンノックを5往復がノルマとして課されました。少なからず選手からは「これでは試合でへばってしまう」とブーイングも上がっていましたが、それも実りの秋を迎えるための大事な種まきでした。

 6月末から首位をキープしていた中日が9月に入って3連敗、4連敗、5連敗と失速したのに対し、カープは敵地での直接対決3連勝を含む6連勝で首位に立つと、2連敗を挟んで再び5連勝。真夏の苦しい練習が勢いの差として表れたのは言うまでもありません。

 目先のことばかりを考えず、先を見据えて手を打つ――。本音を言えば当時は嫌で嫌でたまりませんでしたが、大下さんに鍛えられて長く現役を続けられた選手は僕だけではありません。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。

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