【球界平成裏面史(59) 平成の怪物・松坂の巻(6)】今も語り継がれる平成の怪物・松坂のデビュー戦は、平成11年(1999年)新装された本拠地・西武ドームではなく4月7日、敵地・東京ドームでの日本ハム戦だった。

 これまで何度もリプレーされてきた初回二死から3番・片岡篤史を空振り三振に仕留めたインハイ、155キロストレートのインパクトが強すぎるため陰に隠れがちだが、プロデビュー戦の高卒ルーキーがいかに高いプロの資質を備えていたかを証明する場面が5回にあった。

 西武が5―0とリードして迎えた5回裏二死無走者の場面で打席にマイカ・フランクリンを迎えた場面だ。1ボール2ストライクから松坂が投げた151キロ速球は左打席に立つフランクリンの顔面をあわや直撃するかと思わせる危険な軌道で打者へと向かって行った。

 フランクリンはこれをすんでのところで背後に倒れ込みながら避け直撃を免れたのだが、即座にその1球に対する怒りをあらわにした。

 起き上がるやいなや松坂をにらみつけ一歩、二歩とマウンドに詰め寄ろうとするフランクリン。それを女房役の中嶋聡がなだめている最中、3月に高校を卒業したばかりの松坂はなんとマウンドから相手をにらみ返したものだから、助っ人の興奮は頂点に達し両軍ベンチが総出でもみ合う騒動に発展してしまった。

 幸い大事には至らず松坂はこの鮮烈なデビュー戦で初勝利を挙げるのだが、松坂の強心臓ぶりが垣間見えたのがその直後。この球でカウントを2―2としてからの配球だった。

 並の投手ならそのブラッシュボール1球で配球を外角中心に切り替えてもおかしくないところ。しかし、松坂―中嶋のバッテリーはそこからなお内角のヒザ元にスライダーを食い込ませ、フルカウントとなってさらに内角低めへ150キロストレートを決めに行く(結果はボールで四球)強気の姿勢を崩さなかった。

 本紙は翌8日発行の紙面で試合後にフランクリンを直撃しそのインタビュー記事を掲載した。

 決して直情型の外国人ではなかった助っ人は「松坂に限らず、誰がピッチャーだったとしてもあんなボールを投げるやつは許さない。だいたい5点リードしている時に投げる球じゃないだろう。体に当てられるなら気にしないが、150キロのボールが頭に当たったら今シーズンを棒に振ることになる。ボクには妻も娘もいるんだ。仕事を失うわけにはいかない」と感情を押し殺しながら、努めて冷静にこう続けた。

「彼もわざとやったわけではないだろうから、次はもうないだろう。ただ、もしまたやったら I‘ll kill him(ぶっ殺す)」

 そして、このフランクリンの怒りを知らされた松坂は「ホントですか!」と苦笑いを浮かべながら、真剣な表情で「5点差といってもボクも点をあげたくなかった。後でテレビを見たら結構危ないところに行っていた。すみませんでした」とその場面の心境を語り謝罪の意を示した。

 しかし、キャンプの時から「インコースに投げる時はぶつけるくらいの気持ちで投げてます。小学校くらいの時からそうでした。当てるのを怖がっていたらピッチャーはできないですから」と内角球への持論を語り「もしバッターが向かってきても逃げたくはないですね。ひょっとしたら清原さんみたいに立ち向かうかもしれませんよ」と内に秘める闘争心をあらわにしていた。

 確かな技術と体力に加え、このメンタルがあったからこそ1年目から最多勝(16勝5敗)に輝き、高卒新人では史上初の3年連続最多勝というサクセスストーリーを駆け上がっていくのだった。