狭い広島…厳しい目もあったからこそ強くなれた

2020年06月23日 11時00分

1988年の球宴第3戦ではMVPに輝いた

【正田耕三「野球の構造」(33)】レギュラー定着へと一気に階段を駆け上がった入団2年目にあたる1986年からの3年間は、僕の絶頂期でもありました。86年にはリーグ優勝を経験し、初タイトルとなる首位打者を獲得した87年は監督推薦で球宴にも初出場。初めてゴールデン・グラブ賞に選出されたのもこの年でした。

 88年も勢いはありました。2年連続で首位打者のタイトルを手にして、ゴールデン・グラブ賞も連続受賞。自慢話の羅列みたいになってしまいますが、もう少しお付き合いください。東京ドームで行われたこの年のオールスター第3戦では6回表の守備からの途中出場ながら、7回の第1打席で村田兆治さんから同点打をマーク。3―3の12回には先頭打者で牛島和彦から右中間に三塁打を放ち、代打・水野雄仁の中犠飛でサヨナラのホームを踏んでMVPにも選ばれました。

 東京や大阪などの大都市に比べて、広島は狭い街です。知名度が上がるにつれて、どこにいても「あっ、正田だ」と言われるようになりました。それだけなら何の問題もありませんし、時間があればサインだって握手だってしました。しかし、すべての行動を監視されているように感じていたのも事実です。

 チームが負けたり、自分が大事な場面で打てなかった日は特に大変でした。広島市内最大の歓楽街として知られる流川などで食事をしながら酒を飲んでいると「酒なんか飲んでる場合か!」という容赦ない声が飛んできたからです。タクシーに乗ってもそう。こっちは客なのに、目的地に到着するまでボロカスに言われ続け、ひどいときには犯罪者のような扱いも受けました。

 以前から厳しい声はありました。入団1年目とか2年目だったでしょうか。空き時間に広島市西区の三篠寮からほど近い横川でパチンコをしたときなどは、帰る前に景品交換所に寄ると、おばちゃんから「あんた、パチンコなんか打ってる場合じゃないじゃろ」と言われたり…。ただ、タイトルホルダーとなってからのそれは明らかに異質で「こんなことになるなら首位打者になんかなるんじゃなかった」と思ったことさえありました。

 まあ、そうは言っても厳しい目にさらされるのは世間に認められてきた証拠でもあります。温かい声援はありがたいものですが、時に厳しい目を向けられたからこそ強くなれた。今はそう思っています。当時は「カープ女子」などという言葉もなく、スタンドからの声援やヤジは、おっさんの野太い声ばかりでしたが…。次回からは、少しだけ守備や走塁の話をしていこうと思います。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。

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