松坂は「西武拒否」も百戦錬磨のレオ実働部隊はひるまず

2020年06月21日 11時00分

西武が交渉権を獲得し、険しい表情で会見に臨む松坂。左は渡辺監督

【球界平成裏面史(55) 平成の怪物・松坂の巻(2)】西武の平成10年(1998年)のドラフト戦略は、夏の全国高校野球選手権大会終了後、グループ総帥である堤義明オーナーの鶴の一声で一変した。ドラフト1位のターゲットは当初、逆指名での獲得を目指していた近大・宇高。そこからこの夏、甲子園で伝説となった横浜高の松坂大輔へと入れ替わった。

 理由は翌年に控えていた、グループにとっての大イベント「西武ドーム元年」。集客の目玉を獲得するためだった。

 とはいっても、すでに松坂、横浜高側の意思はつながりの深かった地元球団・横浜ベイスターズ志望の一択。それ以外なら社会人・日本石油(現JX―ENEOS)入りで固まっていた。

 11月5日に退部届を出した際に松坂は「1球団に絞りました」と事実上の“逆指名”を行い、20日のドラフトで強行指名してくる可能性のあるヤクルト、日本ハム、西武の3球団をけん制した。

 西武からの指名あいさつを受けた12日の会見でも、松坂は「退部届を出した時の気持ちと変わっていません」とかたくなに横浜一本の姿勢を貫いた。同席した横浜高・渡辺元智監督からも「西武さんの高い評価は光栄に思う。ドラフト制度がある以上、それを尊重しなければいけませんが、本人にも固く強い信念がある。それを尊重していただくよう私の方からもお願いしました」と指名を断念してくれるよう西武側に申し入れがあった。

 ここまでの展開を見れば平成の怪物、松坂が西武入りする可能性はゼロ。しかし、かつて根本管理部長の下、6位で強行指名した愛工大名電・工藤公康を粘り強い交渉の末、決まっていた社会人・熊谷組入りから翻意させ、ロス五輪で158キロをマークした台湾のオリエンタルエクスプレス・郭泰源を、巨人を出し抜いて獲得に成功した百戦錬磨の実働部隊、浦田直治球団本部長と楠城徹スカウト部長の2人はひるんでいなかった。

「指名することは決めているので、その旨を伝えた」(浦田本部長)、「あとは当たるのを祈るだけ」(楠城部長)。クジさえ引けばあとはなんとかする――。そんな圧倒的な自信が当時の西武フロントにはみなぎっていた。

 そして迎えたドラフト当日。実際に松坂を1位指名したのは、直前で撤退したヤクルトを除く横浜、西武、日本ハムの3球団だった。日本ハム・上田監督、西武・東尾監督、横浜・権藤監督の順番でそれぞれがクジを引き、松坂の交渉権獲得印の入った当たりくじを掲げたのは東尾監督だった。

 その様子を会見場のテレビ画面で見ていた松坂は複雑な表情を浮かべ「(クジが)外れたなという感じ。甘くなかったですね」とぽつり。西武の印象を「若い投手陣が育っている。(東尾監督は)投手出身の監督なのでいいですね」と語りながら「気持ちが揺らぐことはないです」と改めて「西武拒否」の姿勢を示し、社会人に進んで2000年シドニー五輪を目指す意向を示した。

 一方の西武側は「松坂は100%獲らないかん選手。オーナー直々の指令でもあるし、球団だけの問題ではなくなっている。(西武)グループ挙げての問題。向こうが拒否してるのを分かって獲りに行っているんだから、覚悟はできている。獲れなかったら全責任はワシにある」(浦田本部長)と断言。フロントが自ら引責辞任を口にするほどの大プロジェクトへと発展していった。

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