胸に突き刺さった三村さんの言葉…2年連続首位打者へ

2020年06月19日 11時00分

初タイトルを獲得して臨んだ契約更改では自然と笑顔になった

【正田耕三「野球の構造」(32)】ひとたびタイトルホルダーになると、それまで見えなかった景色が見えてきます。守備のことは別の機会に触れますが、入団3年目の1987年は首位打者のほかに二塁手としてゴールデン・グラブ賞にも選ばれ、オフに入ると表彰式ばかりでなく、各種パーティーを催していただいたりしました。

 テレビ出演やサイン会などのイベントも増え、夜の街に繰り出せば、それまで以上にちやほやされる。プロ3年生といっても、まだ25歳。空いた時間を見つけて練習はしていましたが、今になって考えると“その気”になっていたところもあったと思います。

 プロ4年目の88年は開幕から6試合連続安打。10試合を終えて打率3割6分1厘と数字は良かったのですが、自分の打撃ができていなくて、ずいぶんともどかしい思いをしていました。帰塁の際に痛めた右肩の状態が思わしくなく、5月に入るとたびたび欠場するようになり、12日には登録抹消。ウィキペディアにまで書かれている高橋慶彦さんとのトラブルがあったのもこのころでした。

 5月末の復帰後も数字は上がらず、31日の大洋(現DeNA)戦を終えた時点で打率は2割7分を切ってしまいました。そんなときに僕の目を覚ましてくれたのが、当時の守備走塁コーチで、のちに監督も務める三村敏之さんでした。

「お前は守ることと打つこと、どっちが好きなんや?」。もちろん、好きなのは打つことです。しかし、結果が伴っていなかったので「今は楽しくないです」と答えると、三村さんはこう言いました。「今まで結果を考えて練習していたんか? そんなんだからバッティングが崩れるんよ。考え過ぎんと楽しくやれや。来た球を素直に打ちゃええんよ」

 決して難しいことを言われたわけではありません。だからこそ三村さんの言葉は僕の胸に刺さったのだと思います。選手として何より大事なのは試合に出ること。そして出た以上はチームに貢献する。何もヒットを打つことがすべてではない。相手投手に1球でも多く投げさせるなど、チームの役に立つ方法はいくらでもある。そうシンプルに考えて欲を捨てたら、不思議と打率が上がっていったのです。

 この年は右肩痛に泣かされましたが、逆に良かったこともありました。左打席で打つ際に肩が痛くて右腕で引っ張れないため、左手で押し込む打ち方を覚えることができたのです。痛い思いはしましたが、人生において無駄なことは何もない。生涯最高打率となる3割4分で2年連続の首位打者に輝くことができたのは発想の転換があったから。大事なことを気づかせてくれた三村さんには感謝しかありません。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。

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