別の“バット”を振ってからも素振りし続けたところ…

2020年06月17日 11時00分

飛躍の年となった1987年は自主トレから動きも良かった

【正田耕三「野球の構造」(30)】練習量をこなし、成績が伴うことで自信はつきます。ただ、僕は引退するまで自分のことを下手くそだと思っていましたし、平成を代表する投手のように自信が確信に変わることもありませんでした。

 だから練習するしかない。1986年オフにV旅行先のハワイでバットを振り続けていたこともそう。変わったところでは大人の男女が逢瀬を楽しむホテルにもバット持参で行ったりしていました。女性を待たせたまま納得がいくまでバットを振り、別の“バット”を振ってから再びバットを振る。女性には「ついていけない」と振られましたが、不安を解消するためにはバットを振るしかないんです。

 自分の特徴もよく分かっていました。人より足は速かったし、ゴロを転がせばヒットになる確率も上がる。人間だから、気持ちよく打球を遠くに飛ばしたいと思ってしまうこともありましたが、そうすると途端に調子を崩してしまう。打撃コーチの内田順三さんからはフライを打つと怒られていましたし、打撃練習中に主砲の山本浩二さんから「お前は上のネットに当てるな。横のネットに当てろ」と注意されたりもしていました。

 その成果が出たのはプロ3年目、87年です。王貞治監督率いる巨人が4年ぶりのリーグ優勝に向けて突き進んでいたシーズン終盤、僕は巨人の篠塚利夫(現和典)さんとシ烈な首位打者争いを演じることになりました。

 しかし、物事はそううまくいきません。大事な最終局面で、僕の右手首は限界に達していたのです。原因はバットの振りすぎ。もう初タイトルどころではなく、9月30日の阪神戦(甲子園)を最後にスタメンを外れ、出場機会は代走や守備固めに限られていました。

 巨人が優勝を決める直前、10月8日のヤクルト戦(後楽園)を終えた時点でトップの篠塚さんは打率3割3分4厘。試合のなかった9日に優勝が決まり、翌10日の広島戦(広島)の第1打席で凡退し、打率を1厘落としたところで打ち止め。その後の4試合で篠塚さんが打席に立つことはありませんでした。

 対する僕は5試合ぶりにスタメン出場した10月9日の中日戦(ナゴヤ)で2安打するも打率3割3分2厘。ここまで頑張ってこれたことに満足していましたし、はっきり言ってタイトルは諦めていました。

 そんな矢先のことでした。試合のなかった10月19日の夜に、僕は阿南準郎監督から宿舎の品川プリンスホテル内にあるカフェレストランに呼び出され、こう言われたのです。「試合に出ろ。バットが振れないならバントすればいいじゃないか」

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。

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