嘘ではなかった安仁屋コーチのアノ発言

2020年06月10日 11時00分

両打ちに転向した正田は内田コーチ(左)に徹底指導された

【正田耕三「野球の構造」(26)】2008年8月、漫画家・赤塚不二夫さんの告別式で弔辞を読んだタモリさんは「私もあなたの作品の一つです」と締めて話題を呼びました。例えとして適切かどうか分かりませんが、僕もまた、入団から3年間にわたって打撃指導をしていただいた内田順三さんの「作品の一つ」でした。

 最初は僕自身も「右で打てないのに、左で打てるわけないやろ」とスイッチヒッターへの転向には懐疑的でしたが、内田さんと肉親以上に同じ時間を過ごし、ひたすらバットを振り続けていくうちに、おのずと道が開けていったのです。

 入団2年目の1986年はプロ初の開幕スタメンに抜てきされ、二塁での先発出場は偵察要員で投手が入ったケースも含めれば70試合。木下富雄さんの22試合、小早川毅彦の38試合を大きく上回ることができました。規定打席には届きませんでしたが、打率は前年の1割8分から2割8分8厘へと大幅アップ。2年ぶりとなるセ・リーグ制覇にも貢献することができました。

 振り返ってみれば、もし左右両打ちへの転向がなかったら、僕はプロで大した成績を残すこともなく消えていたことでしょう。先ほども触れたように右打席でだけ打っていた1年目は打率1割8分だったわけですから、僕の限界は見えていました。それまで経験したことのなかった左打ちへの挑戦こそが僕にとっての伸びしろだったのです。

 不思議なもので左打席で打てるようになると、1年目にサッパリだった右打席でも結果が伴うようになりました。そうなると、どんどん欲が出てきます。もっと練習すれば、もっと打てるようになるんじゃないかと。

 入団1年目、投手コーチの安仁屋宗八さんに言われたことはうそではありませんでした。「この世界はやったもんが勝つ。やらなあかん」。特に僕のような下手くそは練習するしかないんです。

 あるとき、同学年の元内野手で、94年から昨年までカープのコーチを務めていた永田利則に若き日のエピソードを打ち明けられたことがありました。沖縄キャンプの宿舎だった京都観光ホテルでのことです。

「夜中にこっそり屋上でバットを振ろうと思ったらお前がいてな。もうおらんやろと12時に行ったら、お前はまだバットを振ってた。さすがにもうおらんやろと思って1時に行ったら、まだいた。あのとき、お前にはかなわんと思ったよ」

 ただ、順風満帆だったわけではありません。二塁のレギュラーへと大きく前進した86年には、表ざたにできないハプニングもありました。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。