【球界平成裏面史(45)、岡田阪神(6)】平成19年(2007年)10月15日、一部スポーツ紙上で衝撃の見出しが躍った。「桧山 阪神 退団」。生え抜きの人気選手・桧山進次郎の去就報道に、多くの虎党も驚いたはずだ。ただ、現実にはそうはならなかった。その後の歴史を知る今では「代打の神様」として13年に華々しい引退試合で送り出された。では、この事件にはどういう背景があったのだろうか。

 04年には主に5番として活躍。35歳でキャリアハイの打率3割6厘、84打点を記録した。だが、リーグ優勝した05年は先発投手の左右により、助っ人のスペンサーと併用。06年から代打が“本業”となった。

 だが、適応に苦労した。1打席だけの出番で力を出し切る方法をつかめていなかった。このシーズンは一軍定着後最低の打率1割8分と不振。07年は右翼に浜中治、林威助、葛城育郎らも台頭し出番も減った。前年に続き打率も1割台の1割9分1厘。代打率も1割8分6厘と精彩を欠いた。

 この時点で上層部の一部では「桧山は今季限り」という見解があったことは間違いない。ただ、球団サイドから本人に去就に関する相談も打診もないままだった。何のアプローチもないまま、レギュラーシーズン終了。クライマックスシリーズ(CS)で敗退が決まった翌日、冒頭の退団報道がリリースされることとなった。

 当時、名古屋で取材に応じた桧山は「心配してくれている(担当記者の)お前らにウソはつかへんよ。でも、本当に何も言われてないんや」とCS期間中にもかかわらず誠実に対応してくれた。終戦した後にも、しつこく確認したが球団から連絡はなかった。

 そして報道の当日だ。ニュースを目にした虎党から球団事務所に抗議の声が殺到。桧山本人はたまらず球団首脳に直接、確認の電話を入れた。すると「そんな事実はない」との返答。それを受け、桧山は自身のHPで「誤報です」と否定するという顛末となった。

 かくして、人気選手の退団報道は実現しなかったニュースとなった。だが、桧山退団という絵を描いていた人物がいたことも事実だ。とすれば、一部スポーツ報道を利用して、桧山の進退を世論に委ねたのかという見方もできる。抗議殺到という結果を受けての阪神残留だったのか…。

 結果は大正解だった。08年の桧山は代打で打率2割9分5厘の結果を残した。「1打席で結果を出さないといけない現実を正面から受け入れた」という桧山は「代打の神様」と呼ばれるようになった。代打での158安打、14本塁打、111打点は球団記録。虎党には「試合には負けたけど桧山を見られてよかった」と言われる選手になっていた。

 13年10月13日には奇跡が起こった。広島とのCS(甲子園)で5点を追う9回二死一塁の場面で代打として登場。ミコライオの内角低め154キロ直球を右翼席に本塁打した。忘れられない現役最終打席を「野球の神様がいるのかと思った。22年間で一番いい、自画自賛できる打ち方やった」と振り返った。

「俺は最後まで自分を代打と思ったことはない。最後の最後までライトのレギュラー取るつもりでやってたよ。準備に手を抜かない。(07年に他界した元コーチ)島野さんに怒られるしな」。22年間、虎一筋で全うし最高の幕引きでユニホームを脱いだ。

「退団報道」から、虎党の「桧山を出すな」の猛抗議がこのドラマを生んだ。あの時、阪神を去っていたら…。この原稿も世に出なかったに違いない。