「スイッチをやめたい」泣き言を漏らした僕に内田コーチが…

2020年06月09日 11時00分

今年から巨人二軍監督となった阿部(右)も“内田門下生”の一人だ

【正田耕三「野球の構造」(25)】1983年から昨年まで広島と巨人で主に打撃コーチや二軍監督として選手を指導してきた内田順三さんの教え子には、そうそうたる選手が多く含まれています。広島では野村謙二郎や緒方孝市、前田智徳、金本知憲、新井貴浩、鈴木誠也。巨人だと松井秀喜に高橋由伸、阿部慎之助、坂本勇人、岡本和真。きりがないので分かりやすい名前だけ列挙しましたが、他にも“内田門下生”の一流打者は何人もいます。

 卓越した打撃理論を持ち、選手を指導する上での引き出しが多いことは言うまでもありません。それらにも増して内田さんがすごいのは、選手に注ぐ情熱です。僕がマンツーマンで指導を受け始めた1985年オフもそう。暮れは12月30日まで付きっきりで、年明けは1月3日から練習に付き合っていただきました。

 当時の内田さんは広島市西区内にお住まいで、室内練習場が併設された三篠寮はご自宅から太田川を渡ったすぐのところにありました。しかし、近いという理由だけで、オフも休まず選手を指導するなど普通のコーチにはできません。僕の年末年始休みが大みそかから1月2日までの3日間だったということは、内田さんも3日間しか休んでいないわけです。

 話はちょっと飛びますが、プロ3年目の87年にはこんなことがありました。大洋(現DeNA)を本拠地の旧広島市民球場に迎えての開幕3連戦で、カープは2勝1敗と好発進しましたが、3戦連続「7番・二塁」でスタメン出場した僕は8打数1安打と最悪のスタート。すっかり自信を喪失してしまい、内田さんに「スイッチをやめたい」と泣き言を漏らしたのです。

 そのとき、内田さんからいただいたのが「お前がスイッチをやめるときは野球を辞めるときだ」とのエールでした。言葉だけではありません。次の名古屋遠征では、宿舎の駐車場などで行う朝練でスペシャルメニューまで用意され、連日のようにティー打撃を200球×3箱。5月あたりから調子が上向き、最終的に初タイトルとなる首位打者を獲得できたのは、内田さんの情熱があったからこそでした。

 ヒットが出たからといって、褒めてくれるわけではありません。ある試合で3安打を放ち、試合後にロッカールームの湯船に漬かっていたら「正田、どこにおるんや!」という怒声が響き渡ったことがありました。記録上は3安打でも「あの打ち方じゃダメだ」と言って、その日のうちに修正する。僕はただ内田さんを信じ、付いていくだけでした。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。