“左打席童貞”の僕に内田順三打撃コーチが熱血指導

2020年06月05日 11時00分

1985年の春季キャンプで正田を指導する古葉監督(左)

【正田耕三「野球の構造」(24)】阪神が21年ぶりのセ・リーグ制覇に向けて突っ走り、日本中が六甲おろしのメロディーに包まれていた1985年10月、入団1年目の僕はシーズン終盤の後楽園球場で、試合前の打撃練習中に古葉竹識監督から耳を疑うようなことを言われました。

「左で打ってみろ」

 すでにこのとき、カープを4度のリーグ優勝と3度の日本一に導いた古葉監督は退任が決まっていました。どういう経緯で僕のスイッチヒッター転向が浮上したのかは知りませんが、理屈は分かります。左打席の方が俊足を生かせるし、当時のカープには高橋慶彦さんと山崎隆造さんという最高のお手本が2人もいました。しかし、しかし…です。

 打撃練習だけではありませんでした。阪神の優勝が決まったあとの消化試合でも、広島市民球場で打席に立とうとしたら「おい、ヘルメットが違うぞ」という声が飛んできて、左打席に立てとの指示が出る。口にこそ出しませんでしたが、心の中では「右でも打てないのに、左で打てるわけないやろ!」と叫んでいました。

 シーズン終了をもって古葉監督は退任されましたが、僕のスイッチ転向は引き継ぎ事項となっていました。秋の教育リーグに参加すると、二軍監督の三村敏之さんも「聞いてるぞ。今日からずっと左で打て」と。もちろん簡単には打てるはずがありません。

 そんな“左打席童貞”の僕に、オフも休むことなく付きっきりで指導してくれたのが打撃コーチの内田順三さんです。広島市西区にあった三篠寮で行われた練習は理屈より実践で、左脇を締めてバットを振る癖をつけるため、腕をゴムチューブで縛り、ひたすら打撃マシンから繰り出されるボールを打つ。内田さんからは容赦なく「もっとマシンに近づけ!」「もっとホームベース近くに立て!」との声が飛んできました。

 アームからボールが放たれてからでは間に合わないので、マシンのバネが伸びてうなっている間に振り出すのですが、いかんせん三篠寮の室内練習場に設置されていた打撃マシンはコントロールが悪い。右打席ならスッとよけられるような内角球を満足によけられず、何度となく体にボールを受けました。

 石のように硬いボールが当たれば痛いし、痛いのは嫌だから腰を引くより先に手が出てしまう。これが何ともぶざまな格好なのですが、内田さんは「そう、その感覚だ!」と言うのです。

 当時の僕に打撃理論がどうとか考えている余裕はなく、ただ黙々と、言われた通りにバットを振る。三篠寮での練習は12月30日まで続き、ようやく正月休みだと思って室内練習場の掃除をしていたら、内田さんから愛のこもったひと言が告げられました。

「2日に帰ってこいよ」


 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。

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