【越智正典 ネット裏】本紙連載、早川実の「仙さんとともに」は、たのしかった…。早川は星野仙一に突然、その日の天気を聞かれたとき、調べていなかったので困ったが、すまして答えた。

「晴れ、ときどき、くもり。ところによってにわか雨…です」

“ナイスプレー”である。が、放送局の放送ではそうはいかない。昔、北海道の放送局で天気予報担当のアナウンサーがスタジオに入り、オンエアーのランプが灯いたとき「しまったあー!」。たしかに報道デスクから原稿をもらってきたが、どこかに忘れてきたのか、落としたのか。このアナ、こういうときが肝心、落ち着けと自分に言い聞かせて「天気予報をお伝えします。きょうは晴れ、ときどきくもり。ところによってにわか雨です」。早川には“先輩”がいた。この肝心アナ、のちにアナウンサー学校の校長先生になった…。

 早川実は、福岡電波高、福岡工大、西濃運輸、昭和51年ドラフト4位のピッチャーで中日に入団。現役引退後、用具係、打撃練習投手。星野仙一に抜擢されて監督付広報。監督付きというとカッコよく聞こえるが、遠征地に向かう空港で用事を済ませ、やれやれと食堂に入り、注文したスパゲティーが運ばれてきて、味見にツルリと一、二本口に入れたとき、星野が「さあー行くぞ」。彼は夜まで何も食べられなかった。それからコーチ、スカウト、楽天でも星野付きで則本を獲って優勝に尽くした。

 早川実の歩みにはどこかやさしさがある。父親は大きな病院のレントゲン技師。患者が快方に向かうと、病院の庭でリハビリに野球大会。彼は少年時代、父親といっしょに患者さんを励まし、投げ守ったのである。

 星野が亡くなり楽天を退団した彼は昨年一年、改めてアマチュア野球を見てきたが、ことし中日に招かれて球団代表付調査役に。関係者はドラゴンズの懐の深いのに感嘆したが、よく戻れたなあーとびっくりしている関係者も多い。きちんとしていて、あたたかい町、名古屋が本拠地の中日球団は、ホントはあたたかいチームなのだが、このところ冷たく凍っているようになっていた。

 早川の活動は、中日を強くしたいんです、頼みますよ…と呼びにきた中日監督与田剛と星野仙一の墓参りから始まった。が、新型コロナウイルス。「選手に近づけないでしょ。選手が下級生から上級生になるときの変わり目が見られません」。そのとき、高校生ではなかったが、長嶋茂雄は中1の冬を越し、中2になる春までの間にぐんと背が伸びて、みんなを驚かせた。

 かつてまったく無名であった愛媛県丹原高校の左腕、野口茂樹(対巨人、ノーヒットノーラン)らを獲ったときの早川の視点の一つを知った。早川は野口が大リーグへ行ってもサヨナラをしなかった。毎週、励ましの手紙を書き続けていた…。

 淋しがり屋の星野は、来てくれた与田と早川によろこんだはずだが、早川には得意のセリフでお礼を言ったであろう。

「この、たわけ!」 

=敬称略=