守備も打撃もケタ違いだったプロ…オープン戦で二軍落ち

2020年06月02日 11時01分

1985年のキャンプ中にベンチで談笑する小早川と正田(左)

【正田耕三「野球の構造」(21)】1985年、カープ入団1年目の率直な感想は「とんでもない世界にきてしまった」というものでした。中学、高校、社会人と、それなりに厳しいチームで野球をしてきましたが、プロの世界は何もかもがそれまでと違っていました。

 最初に驚かされたのは1月上旬に沖縄で行われた合同自主トレです。当時は契約期間外の12月~1月末のいわゆるポストシーズンがなく、球団の指示で行ったのですが、どの選手を見渡してもスイングスピードが自分とは違いました。

 同学年ながら高校からすぐにプロへ進んでいた山中潔は打球の飛距離がすごかったし、1学年下の原伸次にしてもいい打撃をしている。法政大を経て僕より1年先にプロ入りしていた小早川毅彦に至っては「ビュッ」というバットが空を切る音さえ威圧的に聞こえたものです。

 2月1日に春季キャンプが始まってからも、圧倒されっぱなしでした。周りにいるのは山本浩二さんや衣笠祥雄さん、高橋慶彦さんといったテレビで見ていたスター選手ばかり。しかも打撃練習ではポンポンと柵越えを連発しているわけです。それに引き換え当時の僕は、木製バットを使うのが初めてということもあって、まるで打球が飛ばない。内野手の頭を越えるのがやっとで、達川光男さんには「ほんまに全日本で1番を打ちよったんか?」とまで言われる始末でした。

 そうなると、さすがに焦ります。首脳陣から打撃フォームにメスを入れられることはありませんでしたが「何とかプロのスピードについていけるようにしなきゃ」との思いが強くて、あれこれ考えてしまう。自分で打撃フォームを修正しているうちにワケが分からなくなってしまいました。

 守備にしてもそう。当たり前のことですが、ノックを見ていてもみんなうまい。実戦になればなおのことです。それまでの社会人野球では、全日本の一員として臨んだ国際試合も含めて金属バットだったので速い打球には慣れているつもりでした。でも、肌で感じるプロの打球速度は金属のそれよりも速く、待って捕るような場合でも差し込まれてしまうし、追いつけると思った打球が外野に抜けて行ってしまうんです。

 何とか1次キャンプの沖縄から宮崎・日南での2次キャンプまで一軍に置いてもらいましたが、都城の中日戦と宮崎での巨人戦のオープン戦2試合が終わると二軍落ち。担当の木庭教スカウトから「アイルランドをクビにしたから二塁は空いている」と言われ、自分にもチャンスはあると思って臨んだプロの世界ですが、キャンプでは古葉竹識監督の意向で本来は一塁手の小早川が二塁に挑戦していたし、いきなりプロの洗礼を浴びる格好となってしまいました。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。

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