父の猛反対を押し切り社会人野球の強豪・新日鉄広畑へ

2020年05月26日 11時00分

1983年の都市対抗で本塁打を放つ正田(日本製鉄広畑提供)

【正田耕三「野球の構造」(17)】市立和歌山商(現市立和歌山)3年の夏、その年に甲子園で春夏連覇を達成する箕島に和歌山県大会で1回戦負け。自分の送球ミスから献上した1点が致命傷となって0―1の敗戦だったこともあり、僕は本気で野球をやめようと考えていました。結果的に続けることを決断したのは、苦楽をともにしてきた仲間たちの後押しがあったからです。

「俺たちの中で一番うまかったのがお前じゃないか。野球を続けて、俺たちが果たせなかった夢を果たしてくれ」。青春ドラマのセリフのような純粋な仲間からのエールは胸に刺さりました。

「よし、もう少し野球を続けてみよう」。近畿大学からもお誘いを受けていましたが、僕が選んだのは兵庫県姫路市にある社会人野球の強豪、新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)でした。厳しかった高校時代と違い、土・日は練習が休みというのも魅力でした。

 ただ、僕の決断に猛反対の人がいました。高校進学時には天理高校でラグビーをさせたがっていた父の弘です。脱サラして一代で繁盛店を築き上げた根っからのそば職人で「野球なんかやらず、どこか修業に行け!」と言うのです。夏の県大会が終わって引退した後は店の手伝いをしていたこともあり、息子を何とか後継ぎに――との思いはより強くなっていたのでしょう。

 最後は「俺には野球しかない。3年間だけ野球をやらせてくれ」という僕の意思を尊重してくれたのですが、その後も何かにつけて「店を継げ」と言われ続けました。プロ野球選手になってからもです。試合でヒットが打てなかったり、二軍落ちしたときに決まって言われたのが「ヒットを打てないなら、和歌山に帰ってそばを打て!」。父が野球を続けてもいいと認めてくれたのは、初タイトルとなる首位打者に輝いたプロ3年目。「首位打者にそば屋はやらせられない」という、実に父らしい言い方でした。

 全日本の常連にもなったことで新日鉄広畑では計5年間を過ごすわけですが、多くの貴重な体験をさせてもらいました。総務部の設備部建築課に籍を置き「野球をやめたときのために」とさせられた午前中の事務仕事もしかり。現役を引退してすぐにコーチとなったとき、スタッフや報道陣に配布するキャンプの練習メニュー表をワープロで作ることができたのも、サラリーマン経験があったからです。

 一方で、誤算もありました。最大の魅力でもあった土・日休みが、入社からほどなくしてなくなってしまったのです。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。