僕のエラーで箕島に敗戦「もういい。野球はやめよう」

2020年05月22日 11時00分

【野球の構造 正田耕三】「箕島を倒して甲子園に行こう!」。2年夏が終わって新チームになったころから、僕ら市立和歌山商(現・市立和歌山)の選手たちは本気になっていました。秋の新人大会では決勝で箕島を6―4で下して優勝しましたし、翌1979年春のセンバツで箕島が優勝したことで余計に「打倒・箕島」への思いは強くなっていきました。

 最大のライバル校で中核を担っていたのはエースの石井毅(現在は木村竹志)と、女房役でのちにロサンゼルス五輪でチームメートとなる捕手の嶋田宗彦。2人の存在は中学生時代から意識していましたし、何度となく対戦してしのぎを削ってきました。

 そして迎えた夏本番。ドラマは和歌山県大会の組み合わせ抽選会から始まりました。僕ら市和商の辻本輝夫監督が「箕島を引いてこい。倒すなら1回戦だ」と言って主将の上和彦を送り出すと、それが現実となったのです。しかも開会式直後の第1試合。どのみち優勝するには箕島を倒さなければならず、決勝でも1回戦でも同じこと。僕らは腹をくくりました。
 事実上の決勝戦と言われた市和商―箕島戦は、7月18日に和歌山市内の県営紀三井寺球場で行われました。平日にもかかわらずスタンドには両校の関係者のみならず一般の高校野球ファンも詰めかけ、試合前から異様な雰囲気。センバツを制した箕島は女性ファンも多く、その点でも「負けてなるものか」と奮い立ちました。

 大方の予想通り、序盤から息詰まる展開となりました。試合が動いたのは4回です。二塁を守っていた僕は先頭打者が放った一、二塁間の打球に追いついたものの、ベースカバーが遅れたこともあり一塁へ悪送球。走者は難なく二塁を陥れ、そこから犠打と犠飛で無安打のまま先制を許してしまったのです。結局、この1点が致命傷となりました。

 のちに社会人の住友金属で橋戸賞に輝き、82年のドラフト3位で西武に入団する石井に対し、市和商は5安打を放つも9三振を喫して無得点。悔やんでも悔やみきれない0―1での敗戦でした。

 高校野球ファンなら結果はご存じのことでしょう。僕らに勝った箕島は順当に和歌山県大会を制し、甲子園では3回戦で今も語り継がれる星稜との延長18回に及ぶ激闘を演じるなど、最終的には史上3校目となる春夏連覇を成し遂げました。

 勝負の世界で「たら」「れば」は禁物です。でも、もし自分のエラーがなかったら――そう思わずにはいられませんでした。1年生のときから信頼して使い続けてくれた辻本監督をはじめ、苦楽をともにしてきた選手にも申し訳ない。「もういい。野球はやめよう」。僕は自分なりのケジメをつけることにしました。

 しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。