ミスター・タイガース藤村の「物干し竿」バットはこうして生まれた

2020年05月23日 11時00分

阪神のOB戦に出場した藤村富美男

【越智正典 ネット裏】藤村富美男が、長い37インチ(93・98センチ)の「物干し竿」バットで187安打、46ホーマーをかっとばし、142打点を叩き出すのは昭和24年のことである。タイガースひと筋、藤村の最終本塁打は昭和31年の広島戦で、カープのエース長谷川良平から代打満塁逆転サヨナラホームラン。「ミスター・タイガース」に違いなかった…。世相が暗かったので、ファンは「物干し竿」に沸いた。

 相手チームのキャッチャーはびっくりした。打席に入ってくる藤村が「わしが空振りしたら、バットが長いからおまえさんに当たるかもしれんなあ。気をつけなさいよ」。キャッチャーが後ろに下がる。藤村はこんなかけ引きを楽しんでいた。

 昭和24年は戦後プロ野球が「復活」してから4年目。1リーグ時代で巨人、阪急、大映、南海、中日、阪神、東急、大陽の8チームで総当たり20回戦のペナントレース。巨人が戦後初優勝する年であるが、阪神の東京遠征の宿は当時の食糧事情から都心の旅館ではなく、千葉県松戸の旅館だった。

 藤村はのちに折り折りに「あの年は開幕前に、どうかタイトルを取れますように…と一升下げて願をかけに行きよりました。ホラ、海のそばで大きなホトケさまがありますやろ」。よくよく聞いてみると鎌倉の大仏さん(長谷観音)だった。この大打者は一心、純情だった。

「戦争が終わってから突如、現れた大下(弘)君の青バットの人気はすごかったですなあー。負けじと巨人の川上君も赤バットでホームラン。こりゃあ、タイガースもなんとかせんといかん思いましてな」


「あれはホトケさまに願をかけに行く前の年(昭和23年、藤村13本塁打)でしたが、ものをシバくときに短いものより長いものでシバいたほうが、ぴしっと決まると思っていたときに、東京の知り合いにゴルフをやってみろとすすめられて、ドライバーを振ってるとええんですわ」

「その知り合いの奥さんが綿でボールを作ってくれました。綿ボールを打って、どのくらいの長さのバットがいいか研究しました。37インチから42インチぐらいのがいいのがわかりました。運動具屋さんに頼んでそれぞれ10本ほどバットを作ってもらいました。遠征から家に帰ると鏡台を引っ張り出して鏡の前で打ちました」

「わたしはそれまで右中間に打ちよりましたが、引っ張りに変え、王君ほどではありませんが足をちょっと上げて打つと具合がいいんですわ」

 昭和11年に結成発足した日本職業野球連盟は、1年間に全球団であわせてお客さん100万人に来てもらうのが悲願だったが、戦争苛烈、悲願を達成できずに昭和19年12月、休業した。巨人軍理事・野口務は「まことにやむを得ざるものありと信ず」と営業日誌を結んでいるが、青バット、赤バット、物干し竿が登場した昭和24年、お客さんは400万人に達した。今日のプロ野球の出発点である。 =敬称略=