人生を大きく変えた骨折アクシデント

2020年05月20日 11時00分

中学時代には全国制覇も成し遂げた。左から3人目が正田

【正田耕三「野球の構造」(14)】ある意味で、僕の人生を大きく変えたと言ってもいいアクシデントが起きたのは、和歌山市立城東中学2年生のときでした。最低気温10度を切る日が多くなり始めた11月のある日、自宅の階段で足を滑らせ、左すねの骨を複雑骨折する大ケガを負ってしまったのです。

 僕は現在も公の場では「正田耕三」と名乗っていますが、パスポートなどで使う戸籍上の本名は「正田耕造」。全治3か月の大ケガをして、縁起が悪いという理由から、このタイミングで改名したのです。

 その効果なのか分かりませんが、骨折から復帰した僕は打撃面で大きな成長を遂げました。当時は右打者で、左足が満足に曲げられない状態だったことから自然と右足に体重が乗るようになり、いわゆる“ため”ができるようになったことで打球に飛距離が出るようになったのです。

 まあ、見切り発車で練習に復帰したのは鬼のように怖い谷口健次監督の説得があったからで、満足に走れる状態ではないのにノックバットを持って追いかけ回された時には殺されるかと思いましたけどね。何が幸いするか分からないのだから、人生とは不思議なものだと思います。結果的に3年生のときには横浜の平和球場(その跡地にできたのが現在の横浜スタジアム)で行われた学童野球の全国大会で優勝することもできました。

 中学の次は高校です。全国制覇を成し遂げ、和歌山ではそこそこ知られた存在になっていた僕のもとには、いくつかの有力校からお誘いが来ていました。なかでも熱心だったのが地元では「しわしょう」と呼ばれていた市立和歌山商業(現・市立和歌山)高校の辻本輝夫監督です。

 毎日のように自宅まで足を運んでくれて、雨の日には傘も差さずに立っている。同級生のレギュラーのうち7人は市和商への進学を考えており、最終的には僕も辻本監督のもとでお世話になるのですが、その決断を下すまでには大きな壁が立ちはだかっていました。父の弘が大反対だったのです。

 父はそば好きが高じて脱サラし、本場の信州で修業したのちにそば店を開業した根っからの職人気質。そのうえ好きなスポーツは学生時代にやっていたラグビーで、昭和40年代に花園で各2度の優勝と準優勝に輝くなど黄金期を築いた奈良の天理高校に進学してほしかったようなのです。

 高校3年間はラグビーに打ち込んで、卒業後は後継ぎとしてそばを打つ――。そんな父の思いをヒシヒシと感じつつも野球を選んだわけですが、中学時代と同様に、待っていたのは地獄のような日々でした。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。