地元・和歌山では知られた谷口健次監督との出会い

2020年05月19日 11時00分

広瀬バンビ時代の正田(前から2人目)

【正田耕三「野球の構造」(13)】野球を始めたのは和歌山市立広瀬小学校3年生の時でした。特に興味があったわけではありませんが、当時は公園でできることといえば野球ぐらい。友達に誘われるまま現在も続く地元の野球チーム、広瀬バンビに入りました。余談ですが、チームのホームページを検索してみたら「広島カープにいた正田選手は広瀬バンビ出身なんだよ。ぼくたちもがんばるぞ!」と書いてありました。本当にうれしいことです。

 ここでの野球は楽しい思い出しかありません。たいしてうまくもなかったので、5年生までは試合に出場しても「8番・右翼」のいわゆる“ライパチ”でしたが、土日に行われる週2回の練習さえ、待ち遠しくて仕方ない。6年生になって打力が上がると「1番・遊撃」を任され、和歌山で行われた大会では負け知らず。自然と野球が大好きになっていました。

 風向きが変わったのは和歌山市立城東中学校に入学してからです。全国大会を目指すバリバリの強豪校で、監督は和歌山のアマチュア球界で知らぬ者はいない谷口健次さん。のちに星林高校の監督としてダイエー(現ソフトバンク)や巨人で活躍した小久保裕紀を育て、1990年にはチームを22年ぶり2度目となる夏の甲子園に導いた名物指導者です。

 谷口監督による指導はとにかく厳しいものでした。練習は365日、休みなく行われ、公立中学校ながら試験期間中もお構いなし。幸か不幸か、僕が入学した年にグラウンドには水銀灯が設置され、夜練習は10時まで。学校は自宅から10分ほどの距離でしたが、帰宅は毎日のように深夜11時でした。

 しかも、野球だけできればいいというわけではありません。谷口監督は「授業さえ聞いていたら80点は取れる」というのが口癖で、学業もおろそかにできない。それはもう、地獄のような日々でした。

 グラウンドに姿が見えなくても気を抜くことはできません。校舎3階の窓から身を潜めて選手の動きをチェックし、サボっていようものなら、今だったら“完全アウト”なペナルティーが科されます。グラウンド脇に車を止めて監視するパターンもあり、当時の野球部員なら誰でも、谷口監督の愛車、三菱のギャランクーペFTOのエンジン音を聞き分けることができたほどです。

 なぜか僕は、谷口監督に買われていました。中学卒業後に進学する市立和歌山商業でも、その後に進む新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)でも1年目からレギュラーで起用されることになるのですが、指導者が「使いたくなる選手」だったようです。その期待の裏返しだったのでしょう。中学2年の11月に左足を骨折した際には、大変な目に遭いました。


 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。