【コロナに負けるな!有名人の緊急事態宣言】今は我慢の時――。新型コロナウイルスの感染拡大で自粛ムードが漂う中、プロ野球OBの多村仁志氏(43)も本紙を通じて力強く訴える。ベイスターズ、ソフトバンクなどで活躍し、2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日の丸を背負って王ジャパンの世界一達成に大きく貢献。NPBとMLBの解説者としてフィールドを広げる同氏に「STAY HOME」と向き合う生活スタイルと球界への思いを聞いた。

 自身では比較的、早い段階から“コロナの怖さ”を自覚していた。緊急事態宣言が発令される前の3月下旬、多村氏は野球評論家などの仕事を相手先と話し合いながらテレワークへ極力切り替えられるように心がけていたという。「命に関わることですから。これはもう仕方がないと思います」。そう自分に言い聞かせ、今も家族とともに「STAY HOME」を忠実に心がけている。

「もう1か月半ぐらいになりますね。その間の外出はスーパーへ妻が買い物に出かける際、持ち切れない分を手伝いに行くぐらい。それでも家にいることは家族との時間を過ごせるので退屈ではないです。子供たちも学校がなくオンラインで勉強する毎日ですが、こうやって皆が一緒にいられるのも大切なことだと思いますしね。今までやっていなかったこともなるべくトライするように心がけていますよ。これまで料理をまったくやっていなかったので、そういうことにも挑戦してみたりとか…」

 こういうご時世だからこそ新たに“男の台所”でも生きがいを見つけようと奮闘している。その一方、自宅では野球評論家として日米球界のデータ収集や選手たちの情報チェックももちろん欠かさない。NHKやJSPORTS、DAZN、TBSチャンネルなど多くの中継番組で適切な解説が評判の多村氏は、来るべき「球界の夜明け」に向けてできる限り、ネットやSNSに目を通しながらリアルタイムの動きを頭に叩き込む毎日を過ごす。

 数多くいる球界OBの中でも率先して自ら現場へ足を運ぶ「勤勉家」として名高い。まだ日本がコロナ禍にさいなまれる直前も、2月下旬から約2週間の日程でメジャーリーグの取材のため米国へ単身渡っていた。アリゾナ州、フロリダ州の両キャンプ地を訪問し、日本人メジャーリーガーたちとも顔を合わせた。

「ちょうど、そのころにどうも日本が(新型コロナウイルスの感染が)ひどくなってくるかもしれないという話が伝わって来たんです。(アリゾナでキャンプを張っている)パドレスがアジア圏から来た人を取材禁止にしていたりして早々と対策に取り組んでいた球団もありましたが、この段階ではまだアメリカもそこまで警戒している感じではなかったです。自分は念のためマスクをしていましたが、逆に怪しい目で見られたぐらいでしたし」

 米国の感染状況が悪化したのは、帰国直後だった。MLBが無期限延期を決めたという衝撃のニュースが伝わり、世界中の多くのファンも落胆した。ちなみに今年からメジャーに移籍したレイズ・筒香、ブルージェイズ・山口の2人は、多村氏にとってベイスターズの後輩。それだけに飛躍する姿を内心で楽しみにしていたはずだが、暗くなりがちな気持ちはあえてのみ込んだ。そして2人を含めた日本人メジャーリーガーたちに関し、次のように力強く太鼓判を押した。

「彼らは“超アスリート”ですよ。必ずやって来る開幕に向けて、きっちりと仕上げてくるはずです」

 メジャーリーグと同様に日本プロ野球も開幕日が白紙に差し戻され、選手たちは苦しい日々を過ごしている。さらに東京五輪の1年延期が決まり、来年3月に予定されていたWBCにも延期報道が出るなど、自身と縁の深い侍ジャパンの活動再開も先が見えにくい。

 そんな日本球界の危機的現状に関しても多村氏は「(プロ野球の)開幕時期は感染リスクのことを考えれば難しい判断が迫られると思いますが」としながら「選手の皆さんはプロ。意識も高いですし、こういう状況下でも自主トレ等で懸命にコンディションをつくっているのは当然です。侍ジャパンにしても、来年の東京五輪はきっと盛り上がることでしょう」と言葉に力を込めた。

 OBとして野球を愛し続ける気概は人一倍だ。だからこそ近いうちにコロナが完全駆逐される日を待ち望んでいる。

☆たむら・ひとし 1977年3月28日生まれ。43歳。神奈川県厚木市出身。右投げ右打ち。横浜高で3年生時に春夏連続で甲子園出場し、94年のドラフトで4位指名された横浜ベイスターズ(現DeNA)に入団。97年に一軍デビューを果たし、2004年から外野手としてレギュラーに定着。球団史上初の40本塁打をマークし、打率3割5厘、100打点の好成績を残す。05年に通算100号、チーム日本人として史上初となる2年連続30本塁打の偉業も達成。06年の第1回WBCに日本代表として選出され、全試合に出場してチームトップの3本塁打、9打点で世界一達成の立役者となる。06年オフにソフトバンクへトレード移籍。主軸として活躍を続け、10年はプロ通算150号、交流戦史上最高打率4割1分5厘、シーズン最終成績も打率3割2分4厘をマークするなどの大暴れでチームを7年ぶりのリーグ優勝へ導く。同年に初の球宴出場、ベストナインも受賞。16年に中日と育成契約を結び、同年限りで現役を引退した。