松永監督にキツくネジを締め直された広沢

2020年05月12日 11時00分

主砲として期待された明大の広沢

【正田耕三「野球の構造」(9)】1984年ロサンゼルス五輪は、現地入りしてからも厳しい練習が続きました。日米大学野球に出場するため、米国に先乗りしていた明大の広沢克己や日大の和田豊ら7人の大学生たちは、松永怜一監督のもとで徹底的に鍛え上げられた社会人13選手が醸し出すピリついたムードに驚いたことでしょう。

 大会前に全日本のメンバーが国内で一堂に会したのは一度きり。いくら主体となるのは社会人の選手といっても、連係プレーなど本番までに確認しておかなければならないことはたくさんありました。そのためにも実戦練習は欠かせず、練習試合をするためにロサンゼルスから東へ3時間ほどバスに揺られ、砂漠地帯の手前まで行ったりしたほどです。

 練習だけでなく、松永怜一監督による1日数回のミーティングで精神面も鍛えられました。特に力説されていたのは「日の丸を背負う意味」。大学生には「遊びじゃないんだぞ」「日米大学野球のような野球はするな」みたいな厳しい言葉も飛んでいたように記憶しています。

 なかでも一番怒られていたのが、広沢だったんじゃないでしょうか。あらためて調べてみたら、同年の日米大学野球で日本は1勝6敗。主砲として期待された広沢は19打数3安打で本塁打、打点ともに0とさっぱりだったので、松永監督としてはネジを締め直さなければ…との思いもあったのでしょう。

 迎えた8月1日の第1戦は、予選リーグの「青組」に入った全日本にとって最大のライバルである韓国が相手でした。先発はのちに中日で守護神として活躍した「韓国の至宝」宣銅烈(ソン・ドンヨル)。試合後に松永監督は「不安だらけだった。どうしたら勝てるのかと考えていた」とコメントしていましたが、先発の吉田幸夫さんが7回途中まで1安打投球を披露して、その後は宮本和知―伊東昭光の無失点リレーで2―0の零封勝ち。「2番・二塁」でスタメン出場した僕も3打数2安打で勝利に貢献することができました。

 2戦目のニカラグア戦は、韓国戦ではベンチを温めていた広沢がソロ本塁打を含む3安打4打点と大暴れ。メンバー最年少の19歳で4番に座った荒井幸雄も4安打1本塁打4打点をマークするなど打線が計19安打と火を噴き、19―1の大勝でした。

 2戦2勝で決勝トーナメント進出も決定。チームのムードも最高潮で、選手の中からは「騒がれている郭泰源の速球を打ちたい」と前年のアジア選手権で悔しい思いをさせられた「白組」の有力チームである台湾を意識した発言まで飛び出していました。そんな矢先に2試合を終えて3安打2打点と好調だった僕にアクシデントが襲い掛かったのです。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。