【球界平成裏面史】中日・落合博満内野手が星野仙一監督の方針を批判したとして大騒動になった長野県・昼神温泉での“落合舌禍事件”。その発生から、ちょうど1年後の平成2年(1990年)1月17日に舞台は同じく昼神温泉でまたも落合の行動が話題になった。今度は首脳陣批判ではない。夜明け前の午前3時33分に単独自主トレを始めたことだ。本塁打、打点、打率の3冠を取るための縁起担ぎ。今でこそ、こういう“語呂合わせスタート”をする選手は、結構いるが、その“元祖”が落合だ。

 その日、午前3時20分ごろに宿舎のロビーに現れたオレ流は早すぎるモーニングコーヒーを飲んだ後「みんな眠そうな顔をしているな。俺は昨日11時に寝たよ。カアちゃん(信子夫人)が一睡もせずに午前3時に起こしてくれたんだ」と言って、50人近い報道陣を見つめた。そして3時33分になったところで「さあ、行くぞ」と元気よく外に飛び出した。信子夫人が宿舎3階の部屋から見送ると、落合は振り向きながら何度も手を振った。「こういう仕事は家族と一緒にやらなければいけないんだ」と言いながら、往復5キロの雪道を54分かけて歩いた。

「俺はランニングより、これの方がいいんだよ」と落合は上機嫌。「4度目の3冠王を狙うのだったら午前4時44分の方がよかったのでは」と報道陣にちゃちゃを入れられても「3時33分はずっと前から決めていた。“444”はゲンの悪い数字だろ」と笑みを浮かべながら答えた。もっとも、記者は寝ずにスタンバイし、この“速歩”に同行して、ぐったり。夕刊速報のため、そこからデスクとの打ち合わせに入り、身も心もへとへとになったが…。

 この自主トレ初日終了後、落合は3冠取りについて「思う気持ちがなくなったらユニホームを脱ぐよ」と高らかに宣言した。さらに信子夫人は「王(貞治)さんは37歳で本塁打王と打点王を獲得しているのよ。(今年)37歳の落合は負けておれないんです」と、それこそダンナにゲキを飛ばすように話した。90年の落合はこの“333発進”からキャンプ、オープン戦を経てシーズンに挑み、3冠王にはなれなかったものの、34本塁打、102打点で2冠に輝いた。信子夫人のハッパには見事に応えてみせたのだった。

 だが、この年の中日は86年以来のBクラスとなる4位に終わった。2冠は取ったものの、落合が夏場にスランプになったのが響いた、ともいわれた。そんな背景もあって、オフにはオレ流の年俸問題が勃発する。2冠を獲得したことで、年俸1億6500万円からの大幅アップを目指す落合と、V逸を理由にその上げ幅を抑えたい中日球団フロント。この戦いは日本人選手初の調停にまで、もつれ込んでいくのだが、そこに至るまでにも、いろんなことが…。90年10月、記者は“落合記事”を巡って、中山了球団社長に呼び出された。さらに、その後には、本紙の1面見出しが大きな話題に…。