五輪選手村は物々しい雰囲気に包まれ…

2020年05月08日 11時00分

女子マラソン界のエースだった増田明美

【正田耕三「野球の構造」(8)】東スポ読者の皆さん、1週間のご無沙汰です。ゴールデンウイークはいかがお過ごしでしたか? 紙面の都合で当連載は“登板日”が変則になっていますが、引き続き、ごひいきのほどよろしくお願いします。

 さて、1984年ロサンゼルス五輪に向けた話の続きです。20人の全日本メンバーのうち日米大学野球選手権のため先に渡米していた大学生7人を除く社会人13選手は、松永怜一監督のもと、約3週間に及んだ国内合宿で徹底的に鍛え上げられました。それはそれは厳しいものでしたが、うれしいこともありました。なかでも感動したのが、日の丸と五輪のエンブレムがデザインされたブレザーです。

 それまでも全日本の一員として日の丸を背負って戦ってきましたが、オリンピックとなると初めて。ブレザーだけでなくジャージーからなにから支給されたウエアはすべて五輪仕様でした。7月24日に東京都港区の新高輪プリンスホテルで行われた全日本の壮行会では全員で紺のブレザーを着用。松永監督の「必ずメダルを取ってきます」とのあいさつも勇ましく聞こえたものです。

 出発は翌25日。女子マラソンでメダルを期待された増田明美さんら陸上選手たちと同じ成田空港発の日航機でした。現在の侍ジャパンなら出国にも多くの報道陣が訪れることでしょうが、僕ら全日本への空港取材はなかったように記憶しています。当時の新聞記事を探してみましたが「野球の全日本チームがロサンゼルスへ向けて出発した」という事実のみ、わずか数行で報じられていただけでした。

 五輪の舞台であるロサンゼルスは、お祭りムードというより、物々しい雰囲気に包まれていました。選手村は現地の大学の学生寮を借りたものだったのですが、バリケードは二重で、ゲートには自動小銃を携えた軍人だったか警備員が立っていたのです。以前にも記したように、世はまだ東西冷戦時代。ベルリンの壁が崩壊する5年前のことで、テロの心配もあったのでしょう。

 それでも選手村は快適でした。食堂は24時間営業で、しかも食べ放題。日本選手団の入った棟では日本食も用意されていましたが、米国らしいハンバーガーやホットドッグがおいしかったことを覚えています。当たり前のことながら、食堂を含めた敷地内には女子マラソンでメダル候補として期待されていた増田明美さんや柔道の山下泰裕さんも見かけたりして、これぞ五輪という感じでした。

 しかし、野球の全日本チームに待っていたのは「本番直前の調整」という表現では収まらない鬼の合宿パート2。それこそ気が休まるのは、食堂で食事をしたり、アイスクリームを頬張っているときだけでした。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。