最悪の合宿環境…投げたボールが松永監督の胸を直撃

2020年05月01日 11時00分

2007年に野球殿堂入りした松永氏(上段右端)

【正田耕三「野球の構造」(7)】僕は中学も高校もプロも、なぜか練習が厳しいところへと進んできました。でも期間限定での厳しさという点において、ロサンゼルス五輪直前に行われた1984年7月の全日本チームの合宿に勝るものはないと思います。監督の松永怜一さんは特に基本を大事にする方で、渡米までの約3週間は夜のミーティングを含めて野球漬け。当時はまだ22歳でしたが、疲れはピークに達していました。

 名誉のために名前は伏せますが、合宿先の社会人チームの寮も最悪でした。最高気温が30度を超える日が10日ほどあった中で、部屋にはエアコンがなく扇風機のみ。疲れてぐったりとしているのに、暑くて寝られないのです。食事も決しておいしいとは言えないものでした。宿舎が品川プリンスホテルで食事もビュッフェだった前年のアジア選手権の直前合宿とは大違い。ロサンゼルス五輪での金メダル獲得という明確な目標があったとはいえ、我慢にも限度があります。

 そんなある日のことです。渡米前に組まれていた3度の練習試合の中で、二塁を守っていた僕がエラーをしてしまったことがありました。詳細は覚えていませんが、見過ごせないミスだったのでしょう。試合を終えて選手たちがバスに乗り込んでいるのに、僕一人がグラウンドに残されて延々と居残りノックをさせられたことがありました。情けないやらチームメートに申し訳ないやら…。そのシーンは今でも鮮明に覚えています。

 そして、やりきれない気持ちは松永監督個人へと向かっていきました。合宿中に唯一、心の休まる瞬間だった風呂場では「松永のオッサン、ほんまにムカつくわ」と口をついて出るのは指揮官への愚痴ばかり。それぐらい心身ともに追い込まれた状態だったのです。

 そんな矢先に“事件”が起きてしまいました。連係プレーをしていた時のことです。外野からの送球を二塁で受け、捕手の嶋田宗彦に目掛けて投げたはずのボールが大きくそれてしまい、指揮官を襲ったのです。

 松永監督は胸部を押さえてその場にうずくまり、グラウンドは凍りついたように静まり返りました。その後も練習は続きましたが、翌日にグラウンドへ姿を現した監督は腕を包帯でつっていました。なんと鎖骨を骨折していたのです。

 今でも松永さんには会うたびに「お前、あの時は俺を狙って投げただろう」と言われます。僕は決まって「そんなわけないじゃないですか」と答えていますが、試合中の死球なども故意かそうでないかは何となく雰囲気で分かるものです。まあ僕の“公式コメント”は死ぬまで変わることはありませんけどね。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。

【関連記事】

関連タグ: