降って湧いたロス五輪出場 本気で“ボイコット”を考えたけど…

2020年04月28日 11時00分

【正田耕三「野球の構造」(5)】ロサンゼルス五輪の予選を兼ねた1983年アジア選手権でエース・郭泰源を擁する台湾の後塵を拝した全日本は88年ソウル五輪へと目標を切り替えていました。しかし、五輪イヤーの84年になって風向きが変わったのです。米国を中心とした西側諸国が80年モスクワ五輪への出場をボイコットした対抗措置としての意味合いもあったのでしょうが、5月に入ってソビエト連邦(現ロシア)がボイコットを正式決定。同23日に野球強豪国であるキューバもソ連に続きました。

 困ったのは大会組織委員会です。公開競技とはいえ目玉の一つでもあった野球で、これまた目玉のアマチュア最強チームが出場辞退。すぐさま善後策が練られ、キューバに代わってドミニカ共和国が出場し、日本とカナダを追加招集する案が浮上しました。

 降って湧いた話に、日本も戸惑いはあったようです。何しろロサンゼルス五輪は社会人にとって最も大事な大会である都市対抗と重なっていたからです。日本学生野球協会との調整もいろいろ大変だったと聞きました。7月31日がロサンゼルス五輪野球競技の初日だというのに、日本国内の調整が最終決着したのは6月19日。同23日に五輪本番での参加する国と地域の組分けが決まり、全日本の代表メンバーが決定したのは7月4日でした。

 僕もメンバーの一人として参加しましたが、実は本気で“ボイコット”を考えていました。というのも前年のアジア選手権で五輪出場権を獲得できなかったという負い目があったからです。「行ったらアカン」と本気で思っていましたし、実際に所属先の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)の関係者を通じて「僕が行くわけにはいきません」と参加辞退を申し入れました。最終的には「悔しさを知っているお前にこそ先頭に立ってやってほしい」と口説かれてお受けしましたが、個人的には複雑な思いもあったのです。

 前年のアジア選手権からメンバーはがらりと変わりました。続けて代表入りしたのは僕と、中学時代から地元の和歌山でしのぎを削ってきた住友金属の捕手・嶋田宗彦、東芝の外野手・福本勝幸さんの2人だけ。最年少は19歳の日本石油・荒井幸雄で、大学球界から明大の広沢克己や日大の和田豊、慶大の上田和明らが加わりました。平均年齢は前年のアジア選手権が27・7歳だったのに対して22・5歳。ずいぶんとフレッシュな顔触れとなりました。

 五輪本番まで1か月を切った段階で結成された急造全日本チームの内訳は社会人13人に大学生7人。結果として金メダルを獲得したのですから最高のメンバーだったのは間違いありません。しかし、この13対7という比率は僕ら社会人の野手にとって頭痛の種となったのです。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。