【正田耕三「野球の構造」(4)】国際大会でまさかのダブルヘッダー。翌年に控えたロサンゼルス五輪への出場権がかかった1983年9月のアジア選手権は、予想外の展開になりました。

 大会そのものは開催国である韓国と日本、台湾が5勝2敗で並んで同率優勝となりましたが、それで終わりではありません。韓国は前年の世界選手権を制して五輪出場権を得ていましたが、日本と台湾はアジアの残り1枠を巡って決着をつける必要がありました。

 日本はオーストラリアを10―0の7回コールドで下し、台湾は延長10回の激闘の末に韓国戦を3―2で制した直後の「五輪代表決定戦」。まさに勝てば天国、負ければ地獄の大一番は、全日本がのちに阪神などで活躍する日産自動車の池田親興さん、台湾はエースの郭泰源が終盤まで息詰まる投手戦を演じました。

 池田さんは今大会の台湾戦で3連投。それまでの2試合も計8イニングを投げて被安打6、自責点1と堂々たる投球を見せており、この日も強打の台湾打線を8回まで2安打に封じ込めていました。

 一方の郭泰源は直前の韓国戦で4回途中から救援し、11回まで投げ抜いてからの連投。さすがに自慢の快速球も鳴りを潜めており「これなら何とかなるんじゃないか」との思いもありましたが、僕も含めて全日本の打者はスライダーやカーブ、シュートを引っかけて内野ゴロの山を築くばかりでした。

 そして0―0で迎えた9回裏に残酷な結末が待っていました。先頭の4番打者・趙士強の放った打球は大きなアーチを描いて左中間スタンドへ。その瞬間にロサンゼルス五輪への道は絶たれました。

 もちろん池田さん一人の責任ではありません。僕ら野手陣も、かわす投球の郭泰源を最後まで打ち崩すことができませんでした。それまで日本はアジアを代表する野球先進国でしたが、結果として負けてしまった。大会の最優秀選手は台湾の呉復連内野手で首位打者も最多本塁打も台湾選手。最優秀投手と優秀守備で表彰されたのは韓国選手で、全日本からは皆無でした。

 大会を終えて失意の帰国となった全日本チームは東京都内の品川プリンスホテルで解団式を行いました。監督を務めた石井藤吉郎さんは「自分を含め、オリンピックの重圧は予想以上だった」と話し、涙を流していました。

 ロサンゼルス五輪への出場どころか、翌年秋に予定されていたニカラグアでの世界選手権出場にも暗雲が垂れ込めた全日本は大きな改革が迫られました。目指すは88年ソウル五輪――。アマチュア球界が新たな目標に向かって大きくかじを切ろうとしたとき、意外な展開が待っていました。時は東西冷戦時代。本来ならスポーツと切り離されるべき国際情勢が絡んで、日本に願ってもないチャンスが転がり込んできたのです。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。