【正田耕三「野球の構造」(3)】1984年ロサンゼルス五輪出場に向けて、最大のライバルとなっていたのがエース・郭泰源を擁する台湾でした。韓国はすでに82年の世界選手権優勝で五輪出場を決めており、日本が五輪切符を手にするためには五輪予選を兼ねた83年のアジア選手権で優勝するか、韓国に次ぐ2位になるしかない。事実上、台湾との一騎打ちと言ってもいい状況でした。

 韓国・ソウルで行われたアジア選手権1次リーグ2戦目、台湾との大一番で対峙したのは、のちに日本のロッテで活躍する荘勝雄さん。失礼な話になってしまいますが、対戦したシーンもほとんど思い出せません。というのも、日本が逆転を許した直後の6回から救援した郭泰源のインパクトが強すぎたからです。

 日本にも球の速い投手はたくさんいたし、対戦経験も積んでいます。ただ、郭泰源の速球は今までに見たことのないものでした。きれいな回転で低めにズドンとくる。のちにロサンゼルス五輪や日本シリーズでも対戦していますが、僕の中ではこの時が一番速かったように思います。実際、米スカウトのスピードガンでは最速154キロだったそうです。

 スライダーも一級品でした。それほど曲がりが大きいわけではないのですが、手元にきてピッと曲がる。ボールそのものが速いから、大きく曲がっているように錯覚させられるのです。そのうえカーブもあって、手も足も出ない感じでした。

 それでも全日本は郭泰源から4安打して何度か得点圏へと走者を進めましたが、あと1本が出ない。計8安打しながら2併殺11残塁で万事休す。これで終わったわけではありませんが、最大のライバルにねじ伏せられて重苦しいムードになったのは事実です。

 全日本は故障を抱えた選手が多く、万全ではありませんでした。僕も本来の二塁ではなく三塁を守ったりもしましたし、この台湾戦でも内野の連係ミスから逆転を許してしまいました。しかし野球では、特に国際大会では結果がすべて。言い訳はできません。

 聞けば台湾も万全ではなかったそうです。韓国入りした直後に選手13人が食中毒の症状を訴え、その中にはエースの郭泰源も含まれており、8人が入院する事態に見舞われていたのです。実際、2次リーグで再び対戦した際の郭泰源は調子を落としていたのか、7回途中4失点と精彩を欠いていました。

 度重なる雨天順延の影響から変則日程となったこの大会は、最終日に5勝2敗で並んだ韓国、日本、台湾が同率優勝となりました。しかし、その結果で喜んでいられたのはすでにロサンゼルス五輪への出場権を得ている韓国だけ。日本と台湾は五輪出場への切符をかけて、第2試合で大会3度目の直接対決に臨むことになったのです。

 ☆しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。