正田耕三氏「五輪出場を懸けたアジア選手権の幕開け」

2020年04月22日 11時00分

正田耕三氏

【正田耕三「野球の構造」(2)】ロサンゼルス五輪の予選を兼ねたアジア選手権が行われた1983年当時は、まだまだ東西冷戦の時代でした。大会の開催地である韓国・ソウルへと向かった9月1日には、領空侵犯を理由に米ニューヨークからアンカレジ経由でソウルの金浦国際空港へと向かっていた大韓航空機がソビエト連邦(現ロシア)の戦闘機に撃墜され、日本人28人を含む乗員乗客269人が亡くなる痛ましい事件も起きました。

 その余波と言ったら失礼になるかもしれませんが、僕ら全日本の選手たちも現地では行動を制限されました。記憶が確かなら宿泊先はソウル市東部のウォーカーヒルで、大会期間中は宿舎と球場の往復のみ。観光で訪れたわけではないので当然と言えば当然ですが、試合への緊張感以外にもピリピリと張りつめたものがあったように記憶しています。開会式では大韓機撃墜事件の犠牲者に黙とうをささげ、韓国の国旗や各国の協会旗も半旗でした。

 試合会場となったのはホテルから漢江を渡ってすぐのところにある蚕室(チャムシル)野球場。この一帯は今でこそ近隣の江南(カンナム)と並ぶ富裕層に人気のエリアで、近くにあるオリンピックスタジアムはK―POPアイドルのコンサート会場にもなっていますが、当時は見渡す限り田んぼだらけでした。

 大会初戦となった9月3日のフィリピン戦は13安打と打線が爆発し、11―2で大勝。のちにヤクルトでプレーする東芝の青島健太さんが左手首を痛めていたため、本来の二塁ではなく「2番・三塁」での出場でしたが、2安打2打点2盗塁とまずまずの滑り出し。それでも一切、浮かれた気分にはなれませんでした。翌日に大一番が控えていたからです。

 同大会最大の注目選手は台湾のエース・郭泰源でした。最速158キロとも言われた速球派で「オリエンタル・エクスプレス」の異名を取り、スライダーもえげつない。ネット裏では巨人や中日などの日本の球団ばかりでなく、ヤンキースのスカウトも熱視線を送っていました。

 今と違って事前に仕入れられる情報など限られたものでした。「ストレートが速いらしい」とか「スライダーもすごいって聞いた」という漠然とした話があるだけで、映像もデータもなし。チームとして対策を立てる手立てもなく、打席に立ってから何とかするしかありませんでした。

 一口に速球といっても打者の感じ方はまちまちです。150キロを超えていても球筋が見やすい投手もいれば、逆に140キロそこそこでも数字以上に速く感じるケースもある。その点で言えば、郭泰源の速球は低めにズドンとくる文字通りの快速球。翌日の1次リーグ第2戦で、不安は現実のものとなりました。

☆しょうだ・こうぞう=1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。