関根潤三さんをしのぶ 1982年・地獄の伊東トレはミスターに大洋監督を引き継ぐためだった

2020年04月17日 16時30分

1975年5月、遠征から帰京する新幹線で長嶋監督(左)と談笑する関根コーチ

【赤坂英一 赤ペン!!(特別編)】 関根潤三さんが9日に93歳で亡くなった。私は格別親しかったわけではないが、球場であいさつするたびに関根さんが背筋を伸ばし「こんにちは」と丁寧にお辞儀をされていたことを思い出す。

 最近はめっきり衰え、たまにテレビで見る姿は痛々しさを感じさせた。が、そんな関根さんを、「監督をやっていたころは本当に厳しい人だったんだよ」と話していたのはDeNAの田代チーフ打撃コーチである。

 関根さんは1981年オフ、大洋(現DeNA)監督に就任。翌82年秋“地獄の伊東キャンプ”で、当時現役だった田代コーチたち大洋の選手を徹底的にシゴき抜いた。

 伊東は巨人・長嶋監督が79年秋に江川、西本、中畑ら、のちの主力18人に猛練習を課した伝説のキャンプ地だ。大洋は関根さんのあと、浪人中の長嶋さんを監督として招聘する計画だった。そこで関根さんは、じっこんの間柄のミスターにチームを引き継ぐため、大洋の選手を一から鍛え直しにかかったのだ。

 キャンプ初日の前夜、関根監督はミーティングに自分より遅れてやってきた選手を、声を荒らげて怒鳴りつけた。

「ふざけんじゃねえぞ、この野郎! ナメてんのか! やる気がねえんだったらとっとと帰れ!」

 うわっ、関根さんって怒ると怖いんだ。穏やかで優しいところしか知らなかった大洋の選手は、たちまち震え上がった。

「練習は厳しかった。朝早くから振り込んで、夜は暗くなってもノックを受けてな。最初の1週間で食事もろくに喉を通らなくなっちゃったよ」

 と田代コーチ。当時、疲れ果ててへたりこんでいると「田代、キツいか?」と関根監督が声をかけてくるので「はい、キツいっす」と答えた。そうすると「そうか、じゃあ、もっと頑張れ、もっと振り込め」と関根監督は言った。そういうときの口調は優しかったが、声に有無を言わさぬ響きがあったという。

 関根監督は、目をかけていた田代を4番に固定。打撃不振に陥ると、いったん6番に下げたりしたが、間もなく「やっぱりおまえに6番は似合わねえな」とまた4番に戻している。

 実は、長嶋監督は第1次巨人監督時代、田代をトレードで獲得しようとしたことがある。それを知る関根さんは、自分が田代を主砲に育て上げ、長嶋監督に託したかったのだろう。謹んでご冥福をお祈りします。

 ☆あかさか・えいいち 1963年、広島県出身。法政大卒。「最後のクジラ 大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生」「プロ野球二軍監督」「プロ野球第二の人生」(講談社)などノンフィクション作品電子書籍版が好評発売中。「失われた甲子園 記憶をなくしたエースと1989年の球児たち」(同)が第15回新潮ドキュメント賞ノミネート。ほかに「すごい!広島カープ」「2番打者論(PHP研究所)など。日本文藝家協会会員。