【越智正典 ネット裏】ことしの第92回のセンバツは3月19日に開幕するはずだったが、中止となった。早実の左腕投手であったソフトバンク・ホークスの球団会長、王貞治が2年生だった昭和32年春第29回大会のセンバツで優勝したのはよく知られている。岐阜商の清沢、八幡商の虎若、左投手が多い大会だった。早実1対0寝屋川高、4対0久留米商、決勝5対3高知商。優勝を決めたのは4月7日。まだ5月20日の誕生日が来ていなかったので16歳だった。

 王はニコニコして話す。寝屋川戦で被安打1の思い出でも、決勝の高知商での先制二塁打のことでもない。

「優勝してから東京へ真っすぐに帰らなかったんです。熱海で降りたんですよ」。新幹線はまだ走っていない。駅弁がたのしい時代である。

「監督の宮井勝成先生(早実、中央大)が、友だちが経営している温泉旅館に連れて行ってくれたんです。“みんなご苦労さん、疲れたろ”と言ってくれました。みんなでお風呂に入りました。理髪店へ行って頭を刈ってもらって来た先輩もいました。オシャレをして一泊しました」。宮井はイキな監督である。翌日は東京駅前、丸の内広場から毎日新聞社主催の優勝パレードである。

 高知商業の新3年生、左腕小松敏宏(昭和33年巨人、在団45年)はこどものときから、山に入って山桃を見付けて食べるのが大好きだった。昭和30年入学。このころ、球児たちも大人が歌うので、このセンバツの2年後にペギー葉山が歌って大ヒットする「南国土佐を後にして」を歌っていた。四国48連隊の兵士たちが戦地で歌っていた望郷歌である。

 小松はセンバツ前、40度の高熱にうなされていた。細木病院に入院1週間。病室で今夜高知商業が関西汽船で甲子園へ出発――と聞いてたまらなくなって桟橋へ行って乗船した。

「甲子園で練習、1球2球3球、投げたのを覚えていますがあとは覚えていません…」。まだ高熱が続いていたのだ。

 5対1小倉高、中指に血マメが出来た。ずーっと寝ていたからだ。7対1八幡商、3対1倉敷工。「ヘンですね。熱のことなど忘れました。治っちゃったですかね」。決勝の8回、血マメが潰れたが、ガマンをして投げましたなどとは言わない。

「その晩、宿で火箸で血マメを焼きました。跡が真っ黒になりました」

 ナインは翌日、国鉄(JR)で岡山から宇野、宇高連絡船で高松へ。瀬戸の島々が青く濃淡に染め分けられていた。松田昇監督が「オマエが病気になったから敗けちゃったよ」。土佐のいごっその賛辞である。「ありがたかったですよ」

「高知に着き、旗(準優勝)を持って少し歩きました。母と姉が駅に迎えに来てくれたそうですが覚えていません。それから病院へ行くと、よう無事に帰って来た…と先生が体温を計ってくれました」。38・5度だったと、あとで細木病院で聞いた。小松敏宏――一途なセンバツ球児であった。昭和34年、小松と王は巨人宮崎キャンプで再会する。二人はいまも固く友情で結ばれている。
 =敬称略=