野村克也を作り上げた辛抱と郷土愛

2020年03月01日 11時00分

黙々とバットを振る野村克也氏(65年2月の南海キャンプ)

【越智正典 ネット裏】野村克也が南海ホークスに入団出来たのは峰山高校の野球部長清水義一先生が南海の人情監督鶴岡一人に手紙を出したのに始まる。

「うちに健気な生徒がいます。見てやって頂けないでしょうか」。ホロリと心打たれた鶴岡は昭和28年夏、京都府大会を見に行った。暑い日だったと聞く。「カベ(ブルペン捕手)ぐらいにいいかも知れぬ」。テスト生扱いで昭和29年に入団。背番号60。

 私が初めて彼を見たのは昭和30年春の後楽園球場での巨人南海オープン戦だった。オープン戦は、テレビのギョーカイことばを借りると“テスト本番”である。よければ一軍に残り、ダメなら二軍落ち。この無名選手の黒いバットがピカピカに光っていた。左中間に三塁打を打った。右中間ではなく、左中間をライナーで破ったのにだ。懸命に走った。速かった。

 野村克也は昭和10年6月29日、丹後ちりめんの町、京都府網野町で生まれた。父要市は熊野郡の奥の坂谷の出で、網野町の食料品店に奉公。年期があけて滋賀県出身のふみさんと結婚。網野町役場の前に屋号「野要」食料品の店を開いた。店は繁盛していたが、日中戦争が始まり、召集令状が来た。「歓呼の声」に送られて出征。戦死した。野村は3歳。

「ウソだ。かあちゃんがかしこうしておればとうちゃんが帰ってくるといった。わし、かしこうしとるに…」

 残された家族の運命は苛酷だ。ふみさんが病に倒れる。病院に多額な治療費が残る。家を手放し6畳一間の間借り暮らし。克也少年は小学校3年生になると仕事を見付けてくる。子守り、新聞配り。冬、午前4時雪道を走って網野駅へ。待っていると一番列車から新聞の包みがほおり出される。駅のベンチで仕分け。町に走って帰り雨戸にはさむ。中学生になった夏は海岸でアイスキャンディー売り。野球雑誌を買って、見るのが何よりのたのしみだった。

 中学をはやく卒業して京都室町の呉服問屋に丁稚奉公に行こうと決めていた。ある日、2歳上の兄嘉明さんが「わし、就職が決まった。月5000円貰える。半分送ったげる。克也、峰山高校へ行け!」

 昭和40年、野村が三冠王(戦後初、打率3割2分、42本塁打、110打点)になったその年の冬、私は網野町で、同級生、ちりめん工房の二代目、池部茂左衛門に会った。二代目が岬に案内してくれた。海は急に荒れ出した。吼えるようだ。

「ぼーっとしとるように見えても克ちゃんの心にはこの日本海の荒波が生きていますよ」。二代目はそのあと網野小学校に連れて行ってくれた。

「三冠王をとって帰って来た秋に克ちゃんは朝礼に引っぱり出されました。口下手なのでハラハラしとりましたら、よう言うてくれました。“大阪の空はスモッグといって汚れた雲でまっ暗や。きれいな空と海にめぐまれた網野の子は幸福や。けどなあー、いまの世の中は辛抱や、辛抱や”…と」 =敬称略=