激怒した星野に田淵が返した憎めないセリフ

2020年02月22日 11時00分

オールスターで顔を揃えた(左から)山本浩二、田淵幸一、星野仙一(76年7月)

【ネット裏・越智正典】通算474ホームラン、競技者表彰のエキスパート部門で殿堂入りした田淵幸一は、内気な少年であった。父親は部下みんなに慕われていた会社役員で、花笠音頭が大好きだった。豊かな家庭に育った。が、母親に“お母さん、お小遣いちょうだい”と言えなかった。欲しいときは、手紙を書いてちょうど2階の自分の部屋の真下が母親の居間だったので釣りざおの先にヒモで手紙を結んで母親の居間の窓にゆらゆら…。もしかすると、これは幸一少年のたのしい遊びだったのかも知れない。

 1946年東京生まれ。星野仙一(故)と仲がよかったのはよく知られているが星野は47年のはや生まれである。法政一高に進んだ。そんな田淵を大きな心で包み鍛え、勇猛でなければならないキャッチャーに育てたのは、このとき法政一高の監督であった松永怜一(ロス五輪金メダル監督、2007年殿堂入り)である。

 松永は田淵に二塁を守らせ右に左にノックを打ち込み走らせた。真正面に直撃打も叩きつけた。田淵はのちに東京六大学通算22号を放ったのだが(立教大学の長嶋茂雄が通算8号の六大学新記録を樹立したときの神宮球場はいまより両翼が約10メートル広く、左中間、右中間にふくらみがあった)その頃、田淵は見に来た女子高校生たちに「キリンちゃん、かわいい!」と騒がれていた。

 松永は長身の田淵を法政一高のときから二塁手にするつもりはなかった。大正年間の名左腕投手、谷口五郎(79年殿堂入り)は後輩の指導者に「選手を肉眼で見てはいけません。心眼で見なさいよ」。55年秋に来日したNYヤンキースの名捕手、ヨギ・ベラは遊撃手で入団後、捕手にコンバートされて開花した。岡山東商、明治大学、大洋の名捕手、土井淳(前駿台倶楽部会長、現同相談役)は遊撃手として鍛えられて来たのでフットワークが素晴らしかった。

 松永は「選手のコンバートは20歳までにしなければいけません」。08年、山本浩二の殿堂入り祝賀会で述べている。山本浩二はピッチャーで入学して来たが松永が法政大学監督のときにバッターにした。強肩外野手、536発のミスター・赤ヘルになった。

 田淵は68年秋、ドラフト1位で阪神に入団。記者会見で大阪によく来てくれた…と拍手が起こった。75年、43本塁打で初タイトル。王貞治の14年連続本塁打王を阻止した。甲子園球場は沸きに沸いた。その甲子園球場での阪神中日戦。打席に田淵を迎えた星野仙一が投げると、田淵がバタッ!と倒れた。星野が怒った。マウンドを下り、起き上がった田淵に詰め寄った。

「わしが投げたのは内角ではない。外角だ。わしの球はもう蝶々が止まりそうになるほどに遅い。倒れたのはどういうわけだ!」

 田淵が言った。

「仙! 怒るなよ。これだけお客さんが入っているんだ。オレにも“営業”させてくれよ。仙よ、ファンあってのプロ野球だろ」。星野は田淵の話をするときはいつもこの話を持ち出して「参ったなあー」と笑っていた。

=敬称略=(スポーツジャーナリスト)

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