【ノムさん追悼】愛弟子・柏原純一氏が明かす真の姿「ボヤキ」「ささやき」というより“生ける情熱大陸”だった

2020年02月12日 19時00分

阪神時代の野村監督(左)と柏原コーチ

 野村克也さんといえば現役時代はマスク越しの「ささやき戦術」で打者を惑わし、指導者としては独特の「ボヤキ」や毒舌で野球ファンをたっぷりと楽しませてくれた。名言や語録は数知れず、理論派の象徴のような存在だったが、実は熱い男でもあった。野村さんとは南海時代からの長い付き合いで、愛弟子でもある野球評論家・柏原純一氏が本紙にノムさんの意外な素顔を明かした。

 訃報は朝、テレビで知った。最後に会ったのはサッチー(故沙知代夫人)のお別れの会。そのときも相当、背中が曲がっていたので「ずいぶんお年を召されたな」と思っていた。つい先日、金田正一さんのお別れ会に出てこられていたのもテレビで見ていた。それからまだそんなに時間もたってないこのタイミングっていうのは、ちょっとビックリした。

 南海で僕と野村さんが師弟関係になったのは1976年。6年目で初めて100試合以上出て、2桁本塁打を打てたシーズン。そのオフに野村さんの自宅があった刀根山(大阪府豊中市)の近所に僕が引っ越したのがきっかけ。それを知った当時、プレーイングマネジャーでもあった野村さんから「試合が終わったら必ず俺の家に寄れ」と。それから毎日、野村邸の庭で1時間ぐらい素振りをさせられた。当時は僕も20代の遊びたい盛り。「えらいところに引っ越してもうたわ~」と思ったものだ。

 どんなに試合で打っても、試合後のマンツーマン指導は続いた。思い出すのは、どうしても外せないお客さんと食事に行かないといけなかった日のこと。意を決して、試合前に「すいません。今日だけは、休ませてください」と野村さんに頭を下げた。それで僕はOKだと思って試合後、飲みに出た。しかし、ほろ酔い気分で家に帰ると、ジャージー姿の野村さんが立って待っていた。「やるぞ!」と。夜中の2時ぐらいだったと思う。

「普通、待ちますか? 勘弁してくださいよ」というのが、当時の素直な心境だった。でも、それからは僕も一切、試合後は飲みに出なくなった。「もうこの人について行くしかない」と腹をくくった。引退後、いろんな球団でコーチをやらせてもらったが、そこまでの情熱は持つことができなかった。というか、そういうふうに何か一つのことに打ち込めないやつは、むしろ「もう無理」と、見放すタイプのコーチだった。振り返ってみれば、野村さんに見込んでもらった自分が、いかに幸せだったかと思う。

 77年に野村さんが南海の監督を解任され、僕もオフにトレードで日本ハムに出された後も師弟関係は続いた。僕は日本ハム移籍から5~6年がピークで、野村さんはその後、ロッテと西武でプレーイングコーチみたいな立場だったと思うが、技術指導はしてくれた。グラウンドでも「最近ちょっとこの部分がおかしいぞ!」とか「今日のウチの先発だったら、お前ならこう打てる」とか言って平気で指導を始める。お互い敵同士になったのにもかかわらず、個人的な関係は貫いてくれた。今の時代では考えられないようなパ・リーグ全体の雰囲気、時代背景もあってのことだろうが、なかなかできることではない。

 おかげで僕が打つたびに「お前はどうせ、野村から、うちの投手を打つアドバイスとか受けてんだろ?」とロッテとかのコーチから相当、言われた。でも悪い気分じゃなかった。むしろ「俺はそれだけの打者に認められて、それだけの下積みをしたから打てるんだ」と胸を張って、本塁打を打つといつもよりベースをゆっくり回っていた。口にこそ出さなかったけど「野村さんにだけは認められたい」と思って、励みにしていた。

 野村さんは「ボヤキ」とか「愚痴」とか、世間ではマイナス思考のキャラクターですっかり定着したけど、僕の中では「情熱の人」。よく野村監督の著書で「しっかりとした人間形成があって初めてプロの技術が磨ける」という内容のくだりがあるが、それは僕を指導していたときから口にしていた。プロ野球選手という「職人」を育てられる人が、また一人逝ってしまった。残念でならない。(野球評論家)